浅間火山レース2

1958年(昭和33年)にはメーカーが参加する形での浅間火山レースは行われず、全国のアマチュアが(バイクショップやチューニングショップを中心とした)クラブチームとして参加する「第1回・全日本モーターサイクル・クラブマン・レース大会」が開催されます。
 この大会に、高橋国光生沢徹が出場し、その才能を煌かせました。 


(後ろ姿はオートバイ専門誌モーターサイクリストの草野文人氏 浅間のクラブマンレースの創設に尽力した)

 ヤマハは1958年からワークスとしてのレースには出場せず、翌、1959年(昭和34年) に再開された「第3回全日本オートバイ耐久ロードレース・第2回全日本モーターサイクル・クラブマンレース大会」にも砂子義一は「ロアー・ヤマハクラブ」の代表としてYDS(250cc)で第1日目メインレースの国際クラスに出場。500ccのBMW、BSAなどに混じって4位でゴールをしています。
 BMWはすべて脱落してしまったものの、軽量級のヤマハのマシンで、スタート時に40~50秒遅れ、前のマシンがあっという間に見えなくなってしまったといいます。

(左側 NO917が砂子)

 同じ年にマン島TTレースにはじめて出場した後に浅間にもワークスマシンを投入するホンダを尻目に、純粋なクラブマンレースへの出場という立場を守りバックアップをほとんどしなかったヤマハ。砂子は悔しさをかみしめた年でした。


(雑誌の取材中検問に遭遇したという珍場面)

 国内の販売網や生産体制を強固な物にするために国内のワークス参戦を休んでいたヤマハでしたが、一方では国際市場への進出のチャンスを狙っていました。1958年にアメリカ、カタリナGP への参戦を果たすのです。このときの日本人ライダー伊藤史朗は6位入賞を果たし、本格的な国際レースへの出場の下地は着々と整えられていました。