世界進出2 ヨーロッパへ

63年ベルギーGP前が砂子後ろが伊藤

いよいよ世界GP参戦へ
 1961、アメリカGP出場を皮切りに、ヤマハはフランスGP、マン島TT、ダッチ、ベルギーと参戦します。ホンダの世界進出を見て、自分達がもっと上に出るという意気込みを持っていたのです。

 「海外にライダーやメカニックを派遣する前に、ホンダ、スズキではテーブルマナーの研修があったらしい。でも、ヤマハでそんなのは無かった。
 マン島TTに出場するためにイギリスのレストランに食事に行くのにネクタイを締めてこないと入れないと言われて、締め直して出かけた。今と違って服装やマナーにとてもうるさい時代だった。スープやコーヒーを飲むときに音を立てるメカニックがいて、周りのイギリス人がじろーっと睨んでいる。俺は癪に障るから、カンカラカカカカーンってわざと皿を叩いてやったよ」
 
 砂子はマン島TTレースではリタイアとマシントラブルで満足できるレースができませんでしたが、ダッチ(オランダGP)では9位(125cc RA41)、ベルギーGPでは125ccで13位、250cc(RD48)で6位入賞を果たします。
 マン島TTレースでは同じヤマハから出場した伊藤史朗は250ccで6位入賞。125ccで11位。後にプリンス自動車でも同じチームメイトになる大石秀夫は125ccで12位。野口種晴は17位で完走します。
 しかし、ホンダは125cc(2RC143)で島崎貞夫が5位、谷口尚巳が8位。250cc(RC162)
 で、高橋国光が4位、谷口尚巳が5位といずれもヤマハより上位に入りました。

1962年の休戦
 翌1962年、ヤマハは世界GPへの参戦はせず、チーム体制の強化とマシンの開発に費やすことを決めます。
 伊藤史朗は《‘62年なんか、海外レースには一度も行かせてもらえなかった。レーサーがレースに出れなくてどうするんだ。オレは仕方なく、東京でタクシーの運転手やったり、新車のテストがあるとその時だけ呼ばれて浜松に行ったりした。走行実験って、真っ黒いスーツに身を包んで、ヤマハの社名も入れないテスト車に乗って天龍あたりの山道を突っ走る。面白かったけど、レースに比べたら天と地さ》(小林信也著『消えた天才ライダー 伊藤史朗の幻』ソニー出版1985年刊)と、当時を振り返っています。 
 
 ヤマハは1962年にオープンした鈴鹿サーキットでの第1回全日本ロードレース選手権大会の参戦からレース部門を強化し、新開発のレーサー、250ccのRD56、125ccのRA51を登場させ、63年世界GPに再び挑みます。

1963年本腰の世界GP
 1963年2月デイトナでのUSGPで、伊藤史朗が250ccで優勝。続いて6月のマン島TTではホンダのジム・レッドマンと抜いてトップで周回するなど、最後まで優勝争いをし、2位。ダッチTTレース(オランダGP)では、砂子が4位、伊藤は2位。
 7月のベルギーGP。スパ・フランコルシャンは1周14.1kmのハイスピードコースであり、RD56の性能が発揮されたレースでした。
 スタートから、1周、2周と砂子がトップで周回。ベルギーの観客を驚かせます。しかし、3周目にはトップを奪われてしまうのですが、奪ったのは伊藤史朗。ゴールまでヤマハ同士のトップ争いが繰り広げられたのでした。
 結果は伊藤、砂子の1、2フィニッシュ。しかも伊藤はコースレコードを塗り替えての優勝でした。
 このレースは、ベルギー人にとって、特に印象深いレースでした。45年たった今でも、ベルギーから、ヤマハを通じて砂子義一宛にこのレースについての問合せや、サインを望む手紙が届いています。

 この年、世界GP最終戦鈴鹿サーキットでの日本GPでした。
 アメリカ、ヨーロッパで好成績をあげたヤマハは、日本GP前にGP参戦をこう振り返ります。
 
《しかし、GPにレースに参加することはなまやさしいことではありません。
 レーサーに対する技術的な自信、これを操るライダーの満足な力量、そして、これらをひっくるめたレーサーをはじめとするかずかずの物的・精神的・経済的な負担。これは誰しもがなし得ることではありません。(中略)
 とりわけ、海外GPへの出場ともなれば、その費用はソロバンでははじけないほどのバク大ものになります。しかし、GPレースにはそれにあえて出場するだけの価値が十分にあるのです。
 ヤマハはそれを実行して見事な収穫を得たのです。
 (中略)
 GPレースは参加するだけでは意味がないのであって、本来、走って競うことが目的なのですから勝たねばなりません、》
 「ヤマハニュース NO14」昭和38年

転換期
1958年からフルブライト留学生としてハーバードへ留学したのを皮切りに世界中を旅しその体験を『何でも見てやろう』という本で発表した小田実は、その著書の中で、アジア諸国の留学生たちが何のてらいもなく、祖国に戻ったら政治の道に進むと言っているのを聞き、今の自分達には気恥ずかしさがつきまとってしまうが、明治初期の日本の留学生であったら、自身の出世と社会の進歩にむすびつけられていたのではないかと考察するところがあります。
 しかし、当時、世界の市場に一歩踏み出した日本の企業人たちは、自社の商品が海外の市場で認められ、売り上げが上がって行くごとに、自己と自国が受け入れられて、成長してゆく高揚感があったのではないでしょうか。
 とりわけ、当時のオートバイメーカーは海外のレースで入賞することによって、名前を知られ、市場を拡大してゆきました。世界の市場開拓の先頭を切るレースに関わるメーカーの使命感の大きさ相当なものだったのでしょう。
 
 レースに出た経験がさらに技術の進歩を加速させ、世界GP参戦からわずか数年でトップレベルに躍り出た日本のバイクメーカー。
 参戦を続けるうちに日本のメーカーと欧米のライダー達のパイプができるようになり、強くなった日本のバイクに、欧米のライダーたちも乗りたいと望むようになるのです。
J・レッドマン(ホンダ)、マイク・ヘイルウッド(ホンダ)、フィル・リード(ヤマハ)M・ダフ(ヤマハ)……。
 日本からヨーロッパへの渡航費は一人当たり当時70万(現在に換算すると700万ほど)
かかった時代、次第にバイクメーカーは地元欧米の、サーキットを知り尽くした、ライダーでレースを戦う道へ舵を切り始めます。
 そして、海外GPを転戦した名うての日本人二輪ライダー達は、1964年から四輪レースに転向を始め、黎明期の自動車レースを牽引し、自動車産業を大きく成長させる存在となるのです。
 砂子義一もそのうちの一人でした。