石原裕次郎と 

砂子が乗った#19 R381

'68日本グランプリ

1968年の日本グランプリ「'68日本グランプリ」には、排気量無制限のレーシングスポーツ「グループ7」の参戦が認められました。これを受けてトヨタニッサン、タキ・レーシングも大排気量車のテストに力を注ぎます。ニッサンは、R381を開発。大きな可変式ウィングで、ダウンフォースを得るという画期的なものでした。エンジンは自社開発品の搭載をあきらめ、シボレーのレース用5.5LV8エンジンを購入しました。TNT対決とも言われたこの時期、メーカーにとって勝つことが何よりも求められていたのでしょう。

当初、R381はクローズドボディでしたが、北野元のテスト走行時に、クラッシュ、炎上するという事故が起こり、ドライバーの安全性も考慮されて、オープンボディに変更されています。
トヨタヤマハ開発のV8エンジンを載せた「トヨタ7」。タキ・レーシングは、ローラTM70Mk?クーペー、とポルシェ910(カレラ10)を投入。ポルシェには生沢徹が乗ります。

砂子義一はR381、3台のうちの青のウィング、カーナンバー19で出場しました。
しかし、予選日のキャブレターのふけ上がりが悪く、煙がでてしまうというコンディションでした。決勝も、マシンをいたわりながらトップを走る同じ時R381の北野元らチームメイトを援護し、6位完走という結果でした。

映画「栄光への5000キロ」撮影ばなし

石原プロモーションはそのころ、ラリーに挑戦し続ける男たちの映画「栄光への5000キロ」(1969年公開)を手がけています。主演は石原裕次郎。その恋人役は浅丘ルリ子でした。
日産のサファリラリーへの挑戦記録が原作となっていたため、日産が協力をしています。

「撮影の準備のために日産の村山工場に裕次郎が来たんだ。レーシングカーに乗るシーンの練習だったと思う。裕次郎は、『僕は、外車の大馬力車に乗ってますから、このレーシングカーぐらい乗れますよ』って自信があったみたいだ。だけど、アクセルをウォンウォンウォンウォンってふかしているうちに、ウォーンってスピンして、真っ青になっちゃった。それで、レーシングカーに乗っているシーンは、身体の大きい横ちゃん(横山達)が担当することになった。一緒に記念撮影するときに、ガードレールに腰掛けるんだけど、裕次郎は脚が長いから、膝が曲がる。平均的な日本人の脚の長さだと、まっすぐのままだからね。隣にいるとカッコ悪いって思って、仲代達矢の横に逃げたんだ」

 「たしか、TBSで石原裕次郎と顔合わせをしたんだ。別世界の人だと思って気軽に『裕ちゃん』なんて言えなかったのを覚えている。裕次郎から、『砂子さんですね』って声をかけてくれた。俺のこと知っているなんて思っていなかったから、えらく感激したのを覚えている。」

 映画では日本グランプリがストーリー上重要なシーンとして映し出されます。実際の撮影は、1969年5月の「フジスピードカップ」の時に富士スピードウエイで行われました。サファリロケは既に終わり、撮影も終盤に差し掛かっていた時期でした。

 「俺が、北野(元)と、ばくちの話をしていたら、裕次郎が『ばくち好き?』って聞いてきたから、俺も『好き好き好き』って、答えて。御殿場ホテルで一緒にオイチョカブを一晩中やったことがあったよ。トランプだったけど」
 
 

 テレビ

「そのころ、市川昭介の歌合戦番組に出たことがあった。ファッションモデルVSレーサーという組合せだった。レーサーチームは、俺と、高橋国光と、黒沢元治。『星影のワルツ』を俺が最後に歌って勝ったんだ。それから、違う番組で、危険な職業特集に、パイロットなんかと、俺で、女房も出たことがある。他に出演依頼もあったけど、あんまり出てもしょうがないなあと思っていた。何しろ本業じゃないから。あんまり待たせるテレビ局のスタッフに俺はテレビで生きてるんじゃねえんだ!って、怒ったこともある」

 レースの盛り上がりともに、レーサーが注目された時代でした。

 「'68日本グランプリ」の観客数は11万人。テレビ中継もされ、視聴率は19%を取ったと言います。翌、1969年には日本グランプリの盛り上がりはピークに達します。日本のグランプリレースがその高みのままに突然終わりが来るとは誰も予想できませんでした。
しかし、自動車産業を取巻く環境は刻々と変わっていたのです。