最終章 引退 息子、智彦のこと

R382後期モデル

グランプリの中止

1969年から、日本のグランプリレースは5月にはフォーミュラーJAFグランプリレース、秋にスポーツカーのグランプリレースがそれぞれ行われることになりました。
日産は新開発のR382を投入。トヨタ7との5リッターエンジン対決となるかと思われていましたが、エントリーしたR382は実際はV12気筒の6リッターエンジンでした(このエントリーの時期はライバルチームを欺くための作戦と大きな話題になった。実際はぎりぎりまで開発が間に合わなかったからとの話しもある)タキレーシングチームはポルシェ917とスイス人ドライバージョー・シファートを招聘して優勝を狙います。
優勝は黄色いボディの21号車、の黒沢元治でした。(砂子義一は同じ21号車の副ドライバーとして臨んでいましたが、決勝では走っていない)。

‘70年のグランプリには大排気量、大馬力のレーシングカーの戦いが繰り広げられる……と、誰しもが期待をしていました。しかし、‘70年6月に日産はその年のグランプリレースへの欠場を発表します。理由は当時社会問題化していた自動車の排気ガス対策を優先するためと言われています。トヨタもそれに同調し、2大メーカーが出場しないことで、主催者側はグランプリ自体が中止を決定します。

GT-R誕生 

1969年2月。スカイライン2000GT-Rが誕生します。
GT-Rのレースデビューは同年5月の‘69JAFグランプリレース大会でした。このツーリングカーレースに出場できるのは、過去にグランプリ大会の入賞経験がないドライバーという条件があったため、砂子義一も出場していません。
篠原孝道選手がドライブしたGT-Rは2位でゴールしましたが、1位でゴールしたトヨタ1600GTが走行妨害で1周のペナルティを受け、GT-Rのデビューは辛くも勝利で飾り、GT-Rが1972年まで52勝を積み重ねる一歩を踏み出すのでした。

翌、1970年、砂子はGT-Rでも活躍します。
4月のレース・ド・ニッポン6時間(富士スピードウエイ)では黒沢元治と組んでクラス優勝。7月の‘70全日本富士1000kmレースでは長谷見昌弘と組んでクラス優勝をします(このレースがレーシングドライバーとして最後の優勝を飾ったレースとなります)。
 11月の’70全日本鈴鹿自動車レースでは日産の、高橋国光桑島正美をレースでサポート。3位に入賞しています。

砂子は1971年でレーサーを引退し、日産ファクトリーチームのマネージャーとして、チームを引っ張って行きました。
「俺は、言いたいことを言っちゃうから、チームの代弁ができるってんで、頼ってくれた面もあった」
「72年に入ると、GT-Rがサバンナに負けることもあって、荻窪の研究室では、ロータリーエンジンの開発をするつもりだったんだ。ローターリーエンジンはアクセルを踏んだだけ回るから。そのあとすぐにオイルショックが来て、そんな話は消えちゃったけど」

智彦の選んだ道
「1968年のメキシコオリンピックのあとの鈴鹿で乗っていたR380が燃えた時は、腰の骨と頬のやけどをしたんだ。新幹線で東京駅まで戻り、救急車で慈恵医大に運ばれたことがある。
レースが終わって、家に帰ると子どもが抱きついてきて、”生きてるっていいなあ”と思った」

「智彦には環八で一回だけヒールアンドトゥを教えたことがあった。大きくなってから、智彦がレーサーになろうとして、オーディションに受かったって、電話をくれたときに、俺がやってきたことをダメだとはいえなかったね。
今でも覚えているのが、智彦が大学生の時。合コンに行くっていうから、俺がじゃ、こずかいやろうとしたら、『子どもを甘やさないで。学生なんだから、学生らしいお金を使う。』って逆にいわれたことがあった。その時はまともに育ててくれたなあって、奥さんに感謝した」
「息子がスカイラインでレースに出ているのを聞いて、やるなあって誇らしかった。親が応援しなくてもできると思ったよ。己には己の道があるはずだと思ったんだ」