砂子義一と再会 

2009年5月23-24日に東京ビッグサイトで行われた「ノスタルジックカーショー」にて。左はプリンス自動車の名車をレストア+販売している「プリンスクラフト」代表の中谷さん スカイライン2000GT(S-54B) プリンス―日本の自動車史に偉大な足跡を残したメーカ…

最終章 引退 息子、智彦のこと

グランプリの中止1969年から、日本のグランプリレースは5月にはフォーミュラーのJAFグランプリレース、秋にスポーツカーのグランプリレースがそれぞれ行われることになりました。 日産は新開発のR382を投入。トヨタ7との5リッターエンジン対決となるかと思…

石原裕次郎と 

'68日本グランプリ1968年の日本グランプリ「'68日本グランプリ」には、排気量無制限のレーシングスポーツ「グループ7」の参戦が認められました。これを受けてトヨタ、ニッサン、タキ・レーシングも大排気量車のテストに力を注ぎます。ニッサンは、R381を開…

日産自動車時代の写真

谷田部での走行実験。クローズドボディのR381だと思われる。 '68日本グランプリ R381でコースインする砂子R381の可変ウィング(エアロスタビライザー)の羽ばたきは観客を魅了した。 砂子のマシンは予選の時からオーバーヒートに悩まされていたという。同じ…

1967年のヨーロッパ視察

1964年、プリンス自動車のレーサーとしてのキャリアをスタートした砂子義一。 「ヤマハのエンジニア達は、大学出なんてことを鼻にかけない、いい人たちで大好きだった。プリンスの人たちも似た気質があって、人間味あふれる会社だったよ」1966年にプリンス自…

1963世界GPアルバム

1963年6月10日 マン島TTレースでバイクに乗りスタートする砂子。 一周60.725kmの山道コースを6周する。 この日は、太陽が降り注ぎアスファルトが溶けそうな暑さだったという。 1963年7月7日 ベルギーGP スパ・フランコルシャンサーキットを疾走する砂子。…

世界進出2 ヨーロッパへ

いよいよ世界GP参戦へ 1961、アメリカGP出場を皮切りに、ヤマハはフランスGP、マン島TT、ダッチ、ベルギーと参戦します。ホンダの世界進出を見て、自分達がもっと上に出るという意気込みを持っていたのです。 「海外にライダーやメカニックを派遣する前に、…

世界進出 1 アメリカ編2

メイドインジャパンが弱かったころ 「マシンはTD−1(後のTZシリーズの原型)の原型になるYDSのプロダクションだった250ccを持ち込んだ。 3ヵ月間滞在してテストしていた。ホテルは高いからってモーテルに泊まって練習していた。店でたくさんアイスクリームを…

第4章 世界進出 1

初めての海外 アメリカへ ホンダが1959年(昭和34年)に、スズキが翌1960年(昭和35年)にマン島TTレースに出場を始め、日本のバイクメーカーは世界の舞台へ進出を移します。 一方、ヤマハは1958年にアメリカ、カタリナGPへの出場をします。販売ルートの足が…

浅間火山レース2

1958年(昭和33年)にはメーカーが参加する形での浅間火山レースは行われず、全国のアマチュアが(バイクショップやチューニングショップを中心とした)クラブチームとして参加する「第1回・全日本モーターサイクル・クラブマン・レース大会」が開催されます。 …

浅間火山レース 1

砂子がヤマハ発動機のライダーとなった2年目。 1957年(昭和32年)、前年の浅間高原レースの公道コースでの開催が不可能になり、専用コースが浅間牧場内に作られました(今のサーキットとは違い、ダートコースでした)。こうして、「第2回浅間火山レース」が…

ヤマハ発動機時代 

YDSで六甲山を攻める ヤマハ浜北工場 大阪へ帰郷のときに 富士登山レースにて 「チームメイトが練習中に転倒して脳震盪を起こしたのを見て、もう帰りたいと思ったことを覚えている」

こうしてレーサー砂子義一は誕生した4 昭和31年ヤマハ発動機へ

たった一ヶ月間だけのつもりで 大阪スミタを辞めた義一は1956年(昭和31年)4月に静岡県浜北町にあったヤマハ発動機浜名工場で働くことになります。 ヤマハ発動機は日本楽器製造(ヤマハ)から、1955年に独立したバイクメーカーとしては後発の会社でした。で…

スミタ時代

大阪、長居オートレース場を舞台としたバイクレースのときにメカニックとして参戦(左) スミタ野球チームのメンバーとして(左) 大阪スミタの様子 左から6番目が砂子義一氏

こうしてレーサー砂子義一は誕生した3 昭和26年スミタへ

バイクメーカーに入社 義一が初めて運転したのは、小学生時代、近所にあったオート三輪でした。 「持ち主のオヤジがエンジンかけられたら乗ってもいいって言うから、一生懸命になってかけたんだ。小学生が自分で運転して、一般道を走ってたんだよ」 バイクが…

こうしてレーサー砂子義一は誕生した2

戦後、気持ちをもてあます 「戦争が終わってアメリカの占領下に置かれてから、カービン銃を持ったアメリカ兵がうちに来て武器を隠していないか家中探されたことがあった。当然、アメリカなんか憎くてしょうがなかったから、抵抗したくてしかたなかった。 妹…

第二章 こうしてレーサー砂子義一が誕生した 1

神主にも教師にも食ってかかる 砂子義一は1932年、台湾で生まれています。「台湾から日本に戻ったのは俺が3歳のとき。オヤジは放浪癖があって仕事はできる人なのに怠けていて、お袋が縫い物や洗濯の仕事をして7人の兄弟達を育ててくれたんだ。 お袋は厳しい…

第3回日本グランプリR380 30度バンクの走り

1966.5.3 ゼッケンNO.11 砂子義一さんのPRINCE R380 富士スピードウエイ 右回6.000km 第3回日本グランプリ 30°バンクの観衆を圧倒した名手の走り。 他を寄せ付けず、四輪での初優勝。 (写真キャプション安川肇 氏) 安川肇 氏 1963年の鈴鹿サー…

1966年 JMS杯授賞式

JAFスポーツ記者クラブ JMS杯授賞式 高輪プリンスホテルにて (写真提供は砂子義一氏)

第3回日本GP トップ争い 

トップ争いをするNO.12砂子義一のR380とNO.6ポルシェ906の滝進太郎ゼッケンNO.2のクルマはアバルトシムカ(写真提供は砂子義一氏)

第3回日本グランプリ

プリンスチームに秘策ありR380のテストも順調に進んで、1966年5月、第3回日本グランプリを迎えます。このときの観客層動員数は10万人、予選の2日に降った雨のために、道路整備が不完全であったこともあり、サーキットまでの渋滞はすさまじいものでした。日…

谷田部のR380

(写真提供は砂子義一氏)

第3回日本グランプリまで

プリンス自動車は第2回日本グランプリを圧勝で飾りましたが、メインのGP-2レースでポルシェ904に敗れたことから、本格的なレーシングマシンの製作を計画します。 レース責任者の田中次郎がヨーロッパに渡り、イギリスのブラバムから直接足回りの研究用にF2…

砂子義一レースアルバム2

ノスタルジックレース写真の蒐集家 安川肇氏による砂子義一氏のレースシーン集2です。 写真撮影、解説は安川氏によるものです。 上段 1965・7・17 砂子晴彦のさん(本名は義一さん)のSKYLINE2000GT 船橋サーキット 左回り 2.400km 第1回全日…

54B(スカイラインGT)

上 鈴鹿サーキットにて(写真提供は砂子義一氏)

第一章 日本グランプリ参戦

第2回日本グランプリ背景 1963年5月に鈴鹿サーキットで第1回日本グランプリが開催されましたが、プリンス自動車(日産自動車との合併は1966年)は、「日本自動車工業会に参加しているメーカーはレースに協力しない」という申し出をかたくなに守ったため、最…

砂子義一 レースアルバム1

ノスタルジックレース写真の蒐集家 安川肇氏による砂子義一氏のレースシーン集①です。 http://f.hatena.ne.jp/gohamamatsu/20080116172907 写真撮影、解説は安川氏によるものです。 1965・3・28 ※砂子晴彦さんのGLORIA SUPER6 川口市営自動車競技場 …

燃える親子対談!

2007年2月3日 プリンス東京新年会にて砂子義一氏と砂子塾長親子レーサーによる「燃える親子対談」の様子を採録しました。 冒頭は、1967年に日産自動車がヨーロッパでのレース活動を視野に入れたため、砂子義一氏が現地の視察に行った話からです。 ・・・…