第4章 世界進出 1

アメリカ デイトナGPへ

初めての海外 アメリカへ 

 ホンダが1959年(昭和34年)に、スズキが翌1960年(昭和35年)にマン島TTレースに出場を始め、日本のバイクメーカーは世界の舞台へ進出を移します。
 一方、ヤマハは1958年にアメリカ、カタリナGPへの出場をします。販売ルートの足がかりとして現地販売店にもヤマハのレーサーバイクを提供し、アメリカ人ライダーが乗る中で、伊藤史朗がマシントラブルに遭いながらも、後半の追い上げで6位に入賞。当時急激にバイクの市場が拡大していたアメリカ西海岸へ「ヤマハ」の記憶を残しました。

砂子義一は1961年、アメリカGP(デイトナ)に参戦するため、伊藤史朗とともに渡米をします。
 
 
デイトナでのアメリカGPに出場するために3ヵ月間アメリカに滞在したんだ。日本人の海外旅行が自由化されていないころで、俺も初めての海外だったから驚くことばかりだった。
 出発前の語学研修なんてなかったけど、何とかなると思って出かけていったよ。当時はアメリカに行くためには、まず、飛行機の燃料補給のためにハワイに寄る。そこで入国審査があって『ワンマウス? ツーマウス?』なんて聞いてくるんだけど、ヘンなこと言わないほうがいいと思ってひたすら両手を挙げた。『パスポート、パスポート』はいはいって見せて、『ビジネス?』って言っているのは分かるんだけど、手を挙げて済ませたよ。
 空港で食事のタダ券をもらって、レストランに入った時のこと。ボーイが日本人の顔をしているから、日本語で声をかけたら、何も返事がない。がっかりして思わず『何だ、日本語わからねえのか、バカっ』って口をついて出ちまった。そうしたらボーイが『何だバカ』って言い返して来て、何だ、日本語わかるじゃねえかと思ったよ。
 アメリカにヤマハ現地法人を作っていて、社員のジミー・ジンリーが日本語と『ジャストモーメント』とかの英語を少しずつはさんでくれたから、少しずつ英語を覚えることができたんだ」
 

強烈なアメリカ体験

 「ロサンゼルスの空港に降り立って、ハイウェイの4車線を見たときに、これじゃ日本は戦争に負けるわと思ったね。西部劇の映画に出てくるような、枯れ木の丸い固まりが、ゴロンゴロンハイウェイを横断していた。当時の自動車は直進安定性が悪くて、いつまでも直線が続くハイウエイでまっすぐ走るのは結構大変だった。ハイウエイでは、降りる場所を間違えると、何百キロも戻ることができないから大変なんだ。かといって、スピードを落とすと後続の車にぶつけられそうになるし。これには慣れるまで大変だった。
 もっと驚いたのはトイレ。当時のアメリカではトイレの個室にドアがないのが結構当たり前だったんだ。洋式のトイレに腰掛けて、用を足しながらパンを齧っていたのを見たときにはホントにびっくりしたなあ。日本の囲いがあるトイレが懐かしくなった。
 その時のロサンゼルスで初めて食べたのが、コカコーラとマクドナルドとケンタッキーフライドチキン。「こんなにうまいものがあったのか!!」と思うぐらい感激した。今もコーラとビッグマックとフライドチキンは好きで食べているよ。
 でも、なんてうまいんだと思って終わっちゃったんだよね。日本で売ろうとは思わなかったんだなあ。そこが凡人なんだよね(笑)。そういえば、浅間火山レースで草津に滞在している時に「浅間の山の土地を一坪一万円で買わないか」という話があったけれど、今のようなリゾート地になるとはまったく考えずに、『こんな火山灰だらけのところ嫌だよ。草津温泉でいまドンチャン騒ぎしてたほうがいい』って断っちゃった。」

 「ロスのドライブインになっているハンバーガーショップで、円形の建物だったなあ。ウエイトレスが、ローラースケートで回ってきて、注文を取るためにキスしてくるんだよね。
 あの時代は、日本人というだけで珍しがられていたのかもしれないけど、女の子から声をかけられたよ。『ユーライクパーティ? 』って、聞いてくるんだ。パーティなんてやらないと思って『ノーサンキュー』っていったら、一緒にいたやつから、あれは誘っているんだって教えられて、それから海外で女の子との遊び方が分かったんだ」

 つづく