浅間火山レース 1

砂子がヤマハ発動機のライダーとなった2年目。
1957年(昭和32年)、前年の浅間高原レースの公道コースでの開催が不可能になり、専用コースが浅間牧場内に作られました(今のサーキットとは違い、ダートコースでした)。

こうして、「第2回浅間火山レース」が行われ、ヤマハも工場レーサー(ワークスマシン)を125ccクラス、250ccクラスに投入します。

砂子は250ccクラスのYD1Aに乗り、クラス2位の成績を収めました。
ヤマハの益子、砂子、下良が1-2-3位を独占。
メーカー同士の争いでも完全な勝利だったのです。



メグロの杉田にストレートで抜かれた瞬間


「合宿所の養孤園に泊まり練習をしていたら浅間山が噴火した。
夜、ドーンという音がして、表に出たら、石が落ちていた」
(第3回浅間火山レースの1959年と思われる)