こうしてレーサー砂子義一は誕生した2

高校入学のころ

戦後、気持ちをもてあます

 「戦争が終わってアメリカの占領下に置かれてから、カービン銃を持ったアメリカ兵がうちに来て武器を隠していないか家中探されたことがあった。当然、アメリカなんか憎くてしょうがなかったから、抵抗したくてしかたなかった。
 妹が、アメリカ兵からチョコレートを貰えるよ、って教えてくれた。最初はあんな敵からもらえるかー!って思ったけれど、背に腹は変えられなくて、最後には率先して『ギブミーチョコレート』ってアメリカ兵のクルマを追っかけて走っていたよ。
 そういえば、敗戦間近の中学で、小松先生という英語の教師が『英語をしゃべる国と戦争しているんだから、英語は絶対知っておいたほうがいい』ってんで、こっそり禁止されていた英語を教えてくれたことがあった。すごい先生がいたんだよ。
 当時は街の通りに雑草すら一本も生えていなかった。きれいに刈り取られている。みんな草を食べて飢えを凌いでいたんだよ。不思議なことに、今思い出すと嫌な思い出だけではなくて、必死で、一生懸命生きていたことがいい思い出にすらなっている」
 
 義一は中学卒業後、工業高校へ進学します。
「毎朝校門の前で『週番士官』と名乗って、たすきをかけて立っているやつがいるんだ。そいつらがポケットをひっくり返して、検査をする。俺は煙草はやってなかったけど、煙草のカスなんて入っていたら、バチーンてビンタを食らう。そのことを上級生に抗議なんてしようものなら、工業高校だったから弱電室に連れて行かれて電気椅子にかけられちゃうから、校内では絶対に逆らえない。だから俺は下級生をいびる上級生を外に呼び出して、一人ずつやっつけていくというのを毎日続けた。それで上級生になめられないようになった。
 夜になっても家でじっとしていられない。街を出歩いては、誰彼かまわずぶつかってきたやつにケンカを売っていた。あるとき、ケンカして負かしたやつの仲間20人が仕返しに来た。こっちは一人だからあっという間に路地裏に引っ張り込まれて、ズタズタに殴られこともあった」

 義一のケンカに向けられたエネルギーは、やがてバイクに向けられることになります。バイクとの出会いがやがて新たな世界への扉を開けることになるのです。