第二章 こうしてレーサー砂子義一が誕生した 1

5、6歳のころ

神主にも教師にも食ってかかる

 砂子義一は1932年、台湾で生まれています。

「台湾から日本に戻ったのは俺が3歳のとき。オヤジは放浪癖があって仕事はできる人なのに怠けていて、お袋が縫い物や洗濯の仕事をして7人の兄弟達を育ててくれたんだ。
 お袋は厳しい人で、叱る時にはバシバシたたかれた。よく空き地の積んである電柱の上に座って『あれは、本当のお袋じゃないんだ……、いつかやさしい人が、私が本当のお母さんよって、迎えに来てくれるんだ』って空想にふけていたよ。でも、家の灯りがつくと、遅くなるとまたお袋に叱られるから、ちゃんと家に帰るんだけど」
尋常小学校の1年生のときに3回も学校を変わった。神戸の大黒小学校に入学して、2学期からは大阪の北河内の学校に、それから旭区の古市小学校に転校したんだ。
 北河内の小学校から古市小学校に転校したばかりのときに、土足で校内に入ったのを先生に『なんだーっ』て、怒鳴られたから、『何だもへったくれもない、前の学校は土足で良かったから土足で入ったんだー』って、怒鳴り返した。戦前の小学校なんて、教師に従うのが絶対だったから無鉄砲な子どもだったんだ。
神社の池に亀がいて遊んでいた時も神主に『危ないから、池に近づくな』って注意されたんだけど、『だったら危ない物を何で造るんだー』って、言い返したらしい。とにかく、子どもの頃から気が強かったんだ。
昔から、ストレートに物を言ってしまうんだ。その分やることはやる。人にはそれはしんどいよって言われるんだけど」

 疎開先で

 義一が9歳の時の昭和16年(1941)、太平洋戦争が始まります。戦局が厳しくなった昭和19年、都市部の国民学校の児童は農村部へ一斉に学童疎開をさせられます。大阪にいた義一も学童疎開をした一人でした。

北河内の寺に疎開をしていたんだ。食事は少ない米をお粥にのばしたものだったから、
どんぶりをポンポンたたくと、飯がひと塊になるくらい少ないんだから、何しろひもじかった。
 お袋が心配して、日曜日ごとにやってきてくれて、田んぼの畦道でこっそり家から持ってきた食べ物を食べさせてくれたんだ。それを友達が見ていたらしくて、その日以来、誰も俺と口をきいてくれなくなっちゃんたんだ。そんな日が一ヶ月以上続いたと思う。俺はどうしてもみんなと話をしたかったから、いろいろ考えた。それで、一番体の大きい寺内ってやつが威張っていたから、そいつをぶっとばすって、みんなの前で宣言して、本当にぶっとばしちゃった。そいつは体だけ大きくて、空威張りしていただけだったんだ。それからみんなに見直されて元通り仲良くなれた。
 今のいじめ問題を見ても、俺はいじめられたらいじめ返せと思うよ。息子の智彦が転校した日にいじめられて泣いて帰ってきたから、『いじめたやつをぶっ飛ばして来い! 行かないと家に上げないぞ』て、言ってやったことがある。次の日から智彦にその子は何もしなくなった。最初が肝心ななんだ。だけど、今のいじめは集団でやるから、美学が無いよ」
 
 大阪大空襲の凄惨な記憶

終戦は旧制中学一年の時。入学式のときに先輩が『赤とんぼ』※で飛んできて、『我々に続けー』と歓迎する。俺もその姿に憧れて、特攻隊に志願するつもりだったから、あと2、3年戦争が続いていたら生きていなかったと思う」
 ※第2次世界大戦中の日本軍練習用飛行機の愛称。目立つオレンジ色に塗装されていたことからそう呼ばれていた。
 
 大阪を襲った最初の大空襲は1945年3月13日。その後、6月1日、6月7日、6月15日、6月26日、7月10日、7月24日、玉音放送のあった日(終戦記念日)の前日、8月14日まで続くのです。

 「通っていた学校の校庭に高射砲があったから、敵の格好の餌食になっていた。爆撃から逃れるために、みんな一斉に逃げる途中で俺だけ転んでしまった。ところが転ばなかったやつのところに爆弾が落ちた。 落ちた爆弾の先っぽを見つけて、友人に渡したとたん、そいつの手の上で爆発したなんてこともあった。
 空襲の後、学校に行こうと歩いていると、周りが焼夷弾が落ちた後で赤茶けていた。ひとりのおばさんが、死体が山になっている中から息子の左手を探していると言うから俺も手伝った。手を拾っては、これは違う?これは?って。その時は死んでいる人を見ても何とも思わない。防火水槽に浸かって上半身だけ焼けた人を見ても平気だった。人間は環境に慣れてしまうものなんだ。ただ、焼夷弾を口にくわえたまま死んでいる兵隊さんを見たときだけは、ワアーって悲鳴をあげた。
 人間同士殺し合いをしているなんて、人間は愚かな生き物だ。戦争なんか大嫌いだよ。イラクの戦争でも、湾岸戦争でも庶民が死ぬから嫌いなんだ。俺たちの頃のように赤紙一枚で兵隊に取られたり、命が簡単に奪われる。そんな時代には二度としたくない」