こうしてレーサー砂子義一は誕生した4 昭和31年ヤマハ発動機へ

ヤマハ浜名工場近くの佐久米駅にて

たった一ヶ月間だけのつもりで
 
 大阪スミタを辞めた義一は1956年(昭和31年)4月に静岡県浜北町にあったヤマハ発動機名工場で働くことになります。

 ヤマハ発動機は日本楽器製造(ヤマハ)から、1955年に独立したバイクメーカーとしては後発の会社でした。では、楽器のメーカーでなぜバイクを作ることになったでしょうか。
 日本楽器も(戦時中に楽器をつくる贅沢は許されず)先行のバイクメーカーがそうであったように、航空機のプロペラなどの軍需品に転換していました。戦後、その時の機材と高い工作技術を生かすことを考えていた社長の川上源一氏はバイクのエンジンから自社で開発し、生産することを決めたのです。第1号のYA-1(125cc)試作車の完成は1954年8月。翌年5月、それからわずか一年足らずで量産を開始します。
 しかし、バイクを作ったものの、はじめは「楽器屋がバイク?」と販売店にはなかなか相手にされなかったといいます。
 そこで、ヤマハ発動機営業担当でもあったヤマハのレーシングチームの監督(渡瀬善三郎)の取った戦略は、浅間での合宿練習をし、レースでの優勝にこだわりました。その合宿も、他社のメーカーに分からないように、社名を伏せて寮を借り、他社が練習する前の早朝にコースに出て練習をするなどの徹底ぶりでした。
 作戦と猛練習が功を奏して、第1回浅間高原レースではYA-1が125ccクラスで1位から3位まで独占。信頼を得てバイクの販売も軌道に乗りだしました。
 
 1956年には175ccのYC175の量産体制に入り、人手が足りなかったヤマハは、各地のバイクメーカーや販売店にいた即戦力になる人材を急遽集めたのです。その中の一人が義一でした。そして、契約期間は4月いっぱいの1ヵ月間だけだったのです。
 
「大阪から浜松駅に降りたとき、ド田舎に来てしまったなあと、がっかりした。当時、浜松の繁華街にはチンピラがいて、地方から就職に来ていた若いモンたちがよく脅されていたんだ。でも、俺だけはからまれることもなかったなあ。当時流行りのつま先がチョコレート色のコンビの革靴とコート肩がけにして、颯爽と街を歩いていたよ」


ヤマハ工場昼休みの対決


「工場に行くと、係長(杉山係長)から『工業高校を出たんだってね。旋盤扱えるか? 』っていわれて、ミッションのメインシャフトを削る仕事をしたよ。
 当時のヤマハはまだ広い敷地内に2棟の工場があっただけだった。昼休みには腕に覚えのある男たちが、バイクに後ろ向きに乗ってみたり、曲乗りをしたりと、特技をひけらかしていたんだ。そいつらが女子社員たちに囲まれてキャーキャー言われているのを見て面白くなくってねえ。『俺はバイクの軽業師のような技はできないけれど、早く走るのは負けねえ!』なんて言っちゃったもんだから、相手は当然『そんなこと言うなら、俺と勝負してみろ!』となる。売られた勝負は買わないわけにはいかない」

 にわかに昼休みの工場が勝負の場に変わり、工員達の見守る中の勝負です。
 工場内でのレースの結果はあっさりと義一の勝利で終わりました。
 その昼休みのバイク対決のあと、義一は総務課から呼び出されます。

「俺は地元のやつらと違って垢抜けていたから当然モテたわけ。てっきりいろんな女の子と遊んでいたことがばれたと思った。呼ばれた時に『あのことか!』って。てっきりクビになるのかと覚悟をしたんだよ。」

 義一を呼んだのは当時のヤマハレーシングチームの監督、渡瀬善三郎氏でした。渡瀬監督から義一はヤマハとライダーとして契約しないかと誘われたのです。
 けれども義一は4月30日に工場勤務の契約終了と同時に、一旦帰郷してしまいます。しかしその後、ヤマハから大阪の家に何度も連絡が来たのでした。

「母親に知られると『バイクレースなんてそんな危険なこと絶対ダメだ』と反対されると思ったから、『まだ仕事が残っているから』と、ごまかして浜松に戻ってくることにしたんだ」

 次にヤマハに戻ったときには、もう工場ではなく、浜名湖でのテスト走行をすることになりました。ヤマハ専属ライダーとしての仕事です。

「最初はテストコースの道を知らないから、他のライダーについて後ろを走っていた。後ろにいると、排気や土ぼこりで顔が真っ黒になっちゃうんだ。それが嫌で、早く道を覚えよう、前を走ろう、と必死に練習していたら、速くなって、一番前を走れるようになっていた」 
 義一は、ヤマハとライダー契約をした一年目の1951年、「第4回富士登山レース」250cc以下のクラスで初出場で優勝を飾り、瞬く間に目立つ存在になりました。
「あのころは、やることなすことすべてうまく行って、天狗になっていたね。富士登山レースで優勝した褒美にヤマハからYC-1をもらったよ。さっそく女の子を連れて、そのバイクで走りに行ったなあ。白バイにわざとスピードを上げて挑発したりすると、女の子が、キャー!ステキ!と騒いでくれるから無茶もした。
 六甲の峠を下る時も、競争しちゃう。相手はエンジンをかけて、こっちはエンジンをかけないで下るんだ。それでもこっちはブレーキのかけ方をわかっているから、勝てるんだよ」