第一章 日本グランプリ参戦

スカイラインGT


 第2回日本グランプリ

背景
 1963年5月に鈴鹿サーキットで第1回日本グランプリが開催されましたが、プリンス自動車日産自動車との合併は1966年)は、「日本自動車工業会に参加しているメーカーはレースに協力しない」という申し出をかたくなに守ったため、最高位がスカイラインスポーツでの7位と惨敗してしまいます。
一方でトヨタトヨタ自販を中心としてレースに勝つための戦略を立てました。手探りながらレース仕様の改造をして臨み、トヨタ車のドライバーへ資金援助をしたのです。結果は各クラスで優勝。「トヨタ車出場全種目に優勝」と大々的に宣伝をして売り上げに結び付けました。
グランプリ終了後、プリンス自動車の中川専務は会長の石橋正二郎に呼び出され、叱責されたことは有名な話です。
プリンス自動車は一念発起し、第2回日本グランプリに向けてレース体制を敷きます。

2輪から4輪へ
 その頃、砂子義一ヤマハのワークスライダーとして、世界GPに出場していました。マン島レースでこそリタイアしたものの、オランダGPでは4位、ベルギーでは2位という好成績を収めています(いずれも250CC以下クラス)。
 「ベルギーのスパフランコルシャンでは※伊藤史朗(いとうふみお)に負けちゃった。伊藤史朗は走る化け物みたいだったよ。スパフランコルシャンは1周14kmだったからまだ憶えやすかったけど、マン島の60kmのコースを覚えるのは大変だった」
 (※伊藤史朗は第1回浅間火山レースにライラックで出場。弱冠16歳で優勝し、後にヤマハと契約し1963年に世界GP総合3位になるなど、天才といわれていたライダー)
 「当時、ヤマハでヨーロッパに遠征するために、ひとり100万円ぐらいかかっていた。それで、だんだんと現地のライダーを採用する動きが出てきて、日本人ライダーはクビになると言われていた時期に、伊藤史朗プリンス自動車と契約できるという話を持ってきた。その話をきいたのはヨーロッパ遠征から帰国する飛行機の中だったなあ。
 伊藤史朗の話は最初信じられなかったけれども、プリンス自動車から直接話を聞いて、やっと本当のことだとわかった。だけれども、4輪のレースがどういうものか、プリンス自動車がどういう会社なのか、その時はぜんぜん分かっていなかった。
 その後、プリンス自動車のレース活動の中心にいた、桜井真一郎と、レース監督の青地康雄らエンジニア達と話をしてみたら、話が合う。こんな会社があるんだと思って、よし、契約しようと思った」

 第1回日本グランプリの時の出場ドライバーは、自家用車を買うことができる、お金持ちのボンボンなどが中心に趣味が高じてレースに出場したという様相でした。第2回日本グランプリ砂子義一や大石秀夫らヤマハのライダーがプリンス自動車と契約することにより、4輪のプロレーサーの嚆矢となります。ほどなく、ホンダのGPライダーとして活躍した、高橋国光北野元は日産のドライバーへ転向しています。

「1963年の11月に契約をして、翌年の5月の日本グランプリまで半年間、プラクティスをひたすら繰り返した。
ヤマハのバイクで鈴鹿を走っていた時に、コースを走っている車を見て、あれがレーシングカーか?って、バカにしていたんだよ。ところが、いざS41グロリアで鈴鹿を走ってみたら、2輪より4輪はスピードが遅いから、サーキットのコーナーで目一杯突っ込んでスピンしちゃう。だから、はじめの頃は、社員ドライバーの小平(勝)、杉田(幸朗)、須田(祐弘)が速かったんだ。当時のレース活動の責任者だった田中次郎部長のノートに『砂子、大石は使い物にならない』って書いてあったって、大石が教えてくれて、これは大変だ、一発でクビになっちゃうと思った。
ある時、外国人ドライバーが来てドライブしたときに、助手席で初めてヒール&トゥを見て、なるほど、こうなるのかと理解できた。それがきっかけになって、タイムが飛躍的に上がったんだ。プリンスには『やっぱりすごい』と思ってもらえたみたいだ。
 当時はラッキーな時代だったと思う。今じゃお金払って契約したドライバーに走り方を教えるなんて考えられないし、メーカーもドライビングテクニックなんてまったく知らなかった。ドリフトしなくちゃ速く走れないなんてことは、自分で走りこんでわかったことだった」

7周目と12週目の証言
1964年(昭和39年)5月2日から3日にかけて鈴鹿サーキットにて第2回日本グランプリが開催されます。
プリンス自動車工業はグロリア(T-Ⅵクラス)、スカイライン1500cc(T-Vクラス)、スカイラインGT(GT-Ⅱクラス)で3クラス制覇を狙いました。

「グロリアでは、エンジントラブルでリタイアしたけど、その前に他のメーカーの車のやつにドーンとぶつかってこられた。ライバル会社では砂子をつぶせということになっていたみたいで、実際に身の危険を感じでボディガードを雇ったぐらいだった」

第2回日本グランプリで語られているシーンはポルシェカレラ904とスカイラインGTの対決でした。
スカイラインGT。グランドツーリング部門で、他メーカーの性能を上回るために急遽、1500ccスカイラインにグロリアの直列6気筒エンジンを載せるために、ベースのスカイライン1500の4気筒用の車体を切り、20cmほどを足したものでした。
ツーリング部門に出場するためには、販売用であることが必要であり、プリンス自動車は大急ぎでホモロゲーション申請期限の1964年3月15日までに100台の生産を達成させます。
しかし、GT-Ⅱクラスには式場壮吉がポルシェ904で出場。スカイラインGTの41号車生沢は予選1位だったものの、スタート直後には式場が余裕でトップに立ち、その後ろに生沢、39号車の砂子と続きます。
7周目のヘアピンコーナー付近で、生沢が式場を抜き、トップを走り、それを見ていた観客は総立ちになったといいます。しかし、バックストレートでまたトップは式場に。
3位で走行していた砂子義一は、その時の様子を後ろから見ていました。

「俺は、生沢が式場の前に行った時に、プリンスは勝てる!と思ったんだ。でも、スプーンコーナーを立ち上がっていたときに、生沢は式場に抜かせてあげていた。生沢と式場の間で話ができていたんだ。『スポーツ精神にのっとってどけてあげた』と彼は言っているが、俺は、生沢はレースを放棄したと思った」

 生沢が2位、砂子が3位で走行していましたが、12周目で生沢の前に出て、そのままゴールをします。

「俺の車のほうが生沢より速い車だったから、プリンスを勝たせるためには生沢を抜かなくてはと思った。どけろ、どけろ、って意思表示をしたけれど、どけないから、ダンロップブリッジのところでぶつけて合図したんだ。生沢が驚いて気づいたから抜くことができた。それから、やっと式場を追いかけることができた。
式場はそれほど速いタイムで走っていなかった(式場の最速ラップは2’48”4 砂子は2’48”9)から、勝負できると思ったんだよ。」

1位はポルシェカレラ904、2位から6位までスカイラインGTが独占。ポルシェと互角に戦った国産スポーツカーの姿は人々に鮮やかな印象を残します。

 凱旋パレードで迎えられる
 マイカーを持つことはもちろん、自動車免許を取ることさえ敷居が高かった当時、憧れの車が多数出場する「日本グランプリ」の注目度は想像を超えるほどとても大きかったようです。レースの模様はテレビでも生中継で放映されていました。

「テレビで俺の名前が出たのを見て、視聴者からの問合せがプリンスに来たらしいんだけど、当時は住所を平気で教えちゃうから、ラブレターも来ちゃうし、大騒ぎだった。
 鈴鹿から帰るときには、箱根、小田原、プリンス自販と歓迎を受けながらの凱旋道中。今思うと最高にいい時代だったよ。」


第2回日本グランプリプリンス自動車の奮闘はこちらでご覧になれます。
 砂子義一氏も登場しています。 
http://youtube.com/watch?v=KVdm98txhEw


 次回は第3回日本グランプリについてです。