第3回日本グランプリまで

ニスモフェスティバルでのR380

 プリンス自動車は第2回日本グランプリを圧勝で飾りましたが、メインのGP-2レースでポルシェ904に敗れたことから、本格的なレーシングマシンの製作を計画します。

 レース責任者の田中次郎がヨーロッパに渡り、イギリスのブラバムから直接足回りの研究用にF2のBT10を、シャシー設計用に2シーターレーシングカーのBT8Aを購入しました。

 ところが、翌年1965年の第3回日本グランプリは開催中止となってしまいます。

 プリンスチームはクラブマンチームとして、この年にオープンした船橋サーキットでのクラブマンレースにスカイライン2000GTで出場したり、ストックカーレースにグロリアで参戦しています。
 この年、砂子義一は砂子晴彦のエントリー名で出場しています。前年11月に誕生した長男智彦(砂子塾長)のミルクの飲みが細く、心配して改名してみたとのこと。やがて、元気に育ったことで翌年からは義一に戻っています。

 日本でのストックカーレースは塩澤進午が設立した「日本オートクラブ」(NAC)が1963年から始めました。2リッターの国産車(グロリアなどのクラス)が対象で、プリンスだけではなく、トヨタも日産もワークス体制で参戦していたようです。
 65年にはシリーズ戦として開催されていました。会場は、川口市オートレース場オーバルコースでした。 

 この年の6月にはプリンス自動車日産自動車の合併が発表されます。
 このことについて、義一氏は意外な話を聞かせてくれました。

鈴鹿サーキットでレースをしていた時に仲が良かった日産の国光(高橋国光)が、『380ってどう?』って聞いてきたんだ。そのころ、俺はまだR380のことなんて、知らなかった。日産の方が先にプリンスにはR380があるって知ってたんだ」

 65年7月に完成したR380は日本グランプリでの総合優勝をかけて作成された国産車初の本格的なレーシングカーです。
 日本グランプリがなくなったことで、プリンス自動車は1965年10月に谷田部テストコースでスピードトライアルを行いました。ドライバーは社員の杉田幸朗です。
 このときに、R380がクラッシュする事故がありました。幸い杉田は軽症で済んだようです。
 スピードトライアルへの挑戦でR380の問題点を表面化させ、直してゆくという繰り返しがレース車両としての完成のスピードを高めました。

 第3回日本グランプリは、1966年に富士スピードウエイでの開催が決定します。第1回、第2回の鈴鹿サーキットJAFが提示した開催費用を承諾しなかったためと言われています。
 富士スピードウエィは1965年12月に仮オープン、翌66年1月3日には正式に営業開始をし、最初のレースは3月、2輪のクラブマンレースでした。

「はじめは富士スピードウエイを54B(スカイラインGT)で走ったんだ。コンピューターの計算上は30度バンクにこのスピードで進入できると言われたけど、コンピューターの計算にはドライバーの恐怖心は入っていないんだよ。青地監督から絶対行けるからといわれて、よし、死んだ気でやるか、と、最初に全開で30度バンクに飛び込んだのは俺だったんだ。
富士のストレートから1コーナーに差し掛かる時に、生沢の車を抜くと、生沢は俺が乗っていた車のほうが速いから砂子のエンジンと替えてくれと言う。でも、抜けたのは車の性能の差ではなくて、バイクのライダーなら当たり前に使っていたスリップストリームを使ったからだった」

 プリンスの契約レーサーがR380に乗ったのは、富士スピードウエィができた後の1966年3月のことでした。
 「R380(サンパーマル)を乗った時には驚いたね。『これは車かよ』って思った。ミッドシップの車も初めてで、速さもすごいけど、何しろ、ステアリング比が1:1。ちょっと切るとどこかにいっちゃう感じだった。怖かったよ。
 コースには一台の380が持ち込まれて、俺と生沢、大石、横山が交代で乗ったんだ。
 俺が初めて2分4秒台を出した時は、桜井真一郎がコースに飛び出してきて、『わかったわかったそれ以上出さなくていいから』と言われた。もっとタイムが上がったけど、性能がばれるとまずいから押さえて走っていたよ。
 R380の色は、俺は赤がいいって最初に手を上げた。生沢も赤がいいって言っていたらしいけど。俺が赤で、生沢が黄色で、大石が青で、横山が深緑になったんだ」

 つづく

※ このブログは砂子義一氏のインタビューを元に再構成しております。