世界進出 1 アメリカ編2

メイドインジャパンが弱かったころ 
「マシンはTD−1(後のTZシリーズの原型)の原型になるYDSのプロダクションだった250ccを持ち込んだ。
 3ヵ月間滞在してテストしていた。ホテルは高いからってモーテルに泊まって練習していた。店でたくさんアイスクリームを買い込んで、冷蔵庫に放り込んでよく食べたなあ。当時日本にないものだから珍しかったんだ。
 いよいよデイトナに入って、練習をしたら、日本から持っていったヨコハマのタイヤが第一コーナーでバーストして転倒しちゃった。これは使えないって、急遽、現地でホンダの北野元と同じエイボンのタイヤを売ってもらおうと思ったら、ヤマハなんて知らないって言われて売ってもらえなくて、ピレリを買ってきてレースに出たんだ。
 当時の世界レベルのレースに出るには、国産は車体とエンジンだけで、ほかの部品はとても国産ではだめだったんだ」 
 

デイトナアメリカグランプリでは、ヤマハの砂子は5位入賞、伊藤史朗は8位だった。ホンダの北野元が優勝し、2位はモンディアルのマイク・ヘイルウッド。

 「マイク・ヘイルウッドはデイトナに自家用飛行機を自分で操縦してやってきた。それを見て、俺もライダーを続けていればいつかは乗れると思ったんだ」




アメリカ ロスでの一枚




ポリスに捕まるポーズのおどけた写真。左が伊藤史朗



第4章 世界進出 1

アメリカ デイトナGPへ

初めての海外 アメリカへ 

 ホンダが1959年(昭和34年)に、スズキが翌1960年(昭和35年)にマン島TTレースに出場を始め、日本のバイクメーカーは世界の舞台へ進出を移します。
 一方、ヤマハは1958年にアメリカ、カタリナGPへの出場をします。販売ルートの足がかりとして現地販売店にもヤマハのレーサーバイクを提供し、アメリカ人ライダーが乗る中で、伊藤史朗がマシントラブルに遭いながらも、後半の追い上げで6位に入賞。当時急激にバイクの市場が拡大していたアメリカ西海岸へ「ヤマハ」の記憶を残しました。

砂子義一は1961年、アメリカGP(デイトナ)に参戦するため、伊藤史朗とともに渡米をします。
 
 
デイトナでのアメリカGPに出場するために3ヵ月間アメリカに滞在したんだ。日本人の海外旅行が自由化されていないころで、俺も初めての海外だったから驚くことばかりだった。
 出発前の語学研修なんてなかったけど、何とかなると思って出かけていったよ。当時はアメリカに行くためには、まず、飛行機の燃料補給のためにハワイに寄る。そこで入国審査があって『ワンマウス? ツーマウス?』なんて聞いてくるんだけど、ヘンなこと言わないほうがいいと思ってひたすら両手を挙げた。『パスポート、パスポート』はいはいって見せて、『ビジネス?』って言っているのは分かるんだけど、手を挙げて済ませたよ。
 空港で食事のタダ券をもらって、レストランに入った時のこと。ボーイが日本人の顔をしているから、日本語で声をかけたら、何も返事がない。がっかりして思わず『何だ、日本語わからねえのか、バカっ』って口をついて出ちまった。そうしたらボーイが『何だバカ』って言い返して来て、何だ、日本語わかるじゃねえかと思ったよ。
 アメリカにヤマハ現地法人を作っていて、社員のジミー・ジンリーが日本語と『ジャストモーメント』とかの英語を少しずつはさんでくれたから、少しずつ英語を覚えることができたんだ」
 

強烈なアメリカ体験

 「ロサンゼルスの空港に降り立って、ハイウェイの4車線を見たときに、これじゃ日本は戦争に負けるわと思ったね。西部劇の映画に出てくるような、枯れ木の丸い固まりが、ゴロンゴロンハイウェイを横断していた。当時の自動車は直進安定性が悪くて、いつまでも直線が続くハイウエイでまっすぐ走るのは結構大変だった。ハイウエイでは、降りる場所を間違えると、何百キロも戻ることができないから大変なんだ。かといって、スピードを落とすと後続の車にぶつけられそうになるし。これには慣れるまで大変だった。
 もっと驚いたのはトイレ。当時のアメリカではトイレの個室にドアがないのが結構当たり前だったんだ。洋式のトイレに腰掛けて、用を足しながらパンを齧っていたのを見たときにはホントにびっくりしたなあ。日本の囲いがあるトイレが懐かしくなった。
 その時のロサンゼルスで初めて食べたのが、コカコーラとマクドナルドとケンタッキーフライドチキン。「こんなにうまいものがあったのか!!」と思うぐらい感激した。今もコーラとビッグマックとフライドチキンは好きで食べているよ。
 でも、なんてうまいんだと思って終わっちゃったんだよね。日本で売ろうとは思わなかったんだなあ。そこが凡人なんだよね(笑)。そういえば、浅間火山レースで草津に滞在している時に「浅間の山の土地を一坪一万円で買わないか」という話があったけれど、今のようなリゾート地になるとはまったく考えずに、『こんな火山灰だらけのところ嫌だよ。草津温泉でいまドンチャン騒ぎしてたほうがいい』って断っちゃった。」

 「ロスのドライブインになっているハンバーガーショップで、円形の建物だったなあ。ウエイトレスが、ローラースケートで回ってきて、注文を取るためにキスしてくるんだよね。
 あの時代は、日本人というだけで珍しがられていたのかもしれないけど、女の子から声をかけられたよ。『ユーライクパーティ? 』って、聞いてくるんだ。パーティなんてやらないと思って『ノーサンキュー』っていったら、一緒にいたやつから、あれは誘っているんだって教えられて、それから海外で女の子との遊び方が分かったんだ」

 つづく

浅間火山レース2

1958年(昭和33年)にはメーカーが参加する形での浅間火山レースは行われず、全国のアマチュアが(バイクショップやチューニングショップを中心とした)クラブチームとして参加する「第1回・全日本モーターサイクル・クラブマン・レース大会」が開催されます。
 この大会に、高橋国光生沢徹が出場し、その才能を煌かせました。 


(後ろ姿はオートバイ専門誌モーターサイクリストの草野文人氏 浅間のクラブマンレースの創設に尽力した)

 ヤマハは1958年からワークスとしてのレースには出場せず、翌、1959年(昭和34年) に再開された「第3回全日本オートバイ耐久ロードレース・第2回全日本モーターサイクル・クラブマンレース大会」にも砂子義一は「ロアー・ヤマハクラブ」の代表としてYDS(250cc)で第1日目メインレースの国際クラスに出場。500ccのBMW、BSAなどに混じって4位でゴールをしています。
 BMWはすべて脱落してしまったものの、軽量級のヤマハのマシンで、スタート時に40~50秒遅れ、前のマシンがあっという間に見えなくなってしまったといいます。

(左側 NO917が砂子)

 同じ年にマン島TTレースにはじめて出場した後に浅間にもワークスマシンを投入するホンダを尻目に、純粋なクラブマンレースへの出場という立場を守りバックアップをほとんどしなかったヤマハ。砂子は悔しさをかみしめた年でした。


(雑誌の取材中検問に遭遇したという珍場面)

 国内の販売網や生産体制を強固な物にするために国内のワークス参戦を休んでいたヤマハでしたが、一方では国際市場への進出のチャンスを狙っていました。1958年にアメリカ、カタリナGP への参戦を果たすのです。このときの日本人ライダー伊藤史朗は6位入賞を果たし、本格的な国際レースへの出場の下地は着々と整えられていました。

浅間火山レース 1

砂子がヤマハ発動機のライダーとなった2年目。
1957年(昭和32年)、前年の浅間高原レースの公道コースでの開催が不可能になり、専用コースが浅間牧場内に作られました(今のサーキットとは違い、ダートコースでした)。

こうして、「第2回浅間火山レース」が行われ、ヤマハも工場レーサー(ワークスマシン)を125ccクラス、250ccクラスに投入します。

砂子は250ccクラスのYD1Aに乗り、クラス2位の成績を収めました。
ヤマハの益子、砂子、下良が1-2-3位を独占。
メーカー同士の争いでも完全な勝利だったのです。



メグロの杉田にストレートで抜かれた瞬間


「合宿所の養孤園に泊まり練習をしていたら浅間山が噴火した。
夜、ドーンという音がして、表に出たら、石が落ちていた」
(第3回浅間火山レースの1959年と思われる)

ヤマハ発動機時代 


YDSで六甲山を攻める



ヤマハ浜北工場



大阪へ帰郷のときに


富士登山レースにて
「チームメイトが練習中に転倒して脳震盪を起こしたのを見て、もう帰りたいと思ったことを覚えている」

こうしてレーサー砂子義一は誕生した4 昭和31年ヤマハ発動機へ

ヤマハ浜名工場近くの佐久米駅にて

たった一ヶ月間だけのつもりで
 
 大阪スミタを辞めた義一は1956年(昭和31年)4月に静岡県浜北町にあったヤマハ発動機名工場で働くことになります。

 ヤマハ発動機は日本楽器製造(ヤマハ)から、1955年に独立したバイクメーカーとしては後発の会社でした。では、楽器のメーカーでなぜバイクを作ることになったでしょうか。
 日本楽器も(戦時中に楽器をつくる贅沢は許されず)先行のバイクメーカーがそうであったように、航空機のプロペラなどの軍需品に転換していました。戦後、その時の機材と高い工作技術を生かすことを考えていた社長の川上源一氏はバイクのエンジンから自社で開発し、生産することを決めたのです。第1号のYA-1(125cc)試作車の完成は1954年8月。翌年5月、それからわずか一年足らずで量産を開始します。
 しかし、バイクを作ったものの、はじめは「楽器屋がバイク?」と販売店にはなかなか相手にされなかったといいます。
 そこで、ヤマハ発動機営業担当でもあったヤマハのレーシングチームの監督(渡瀬善三郎)の取った戦略は、浅間での合宿練習をし、レースでの優勝にこだわりました。その合宿も、他社のメーカーに分からないように、社名を伏せて寮を借り、他社が練習する前の早朝にコースに出て練習をするなどの徹底ぶりでした。
 作戦と猛練習が功を奏して、第1回浅間高原レースではYA-1が125ccクラスで1位から3位まで独占。信頼を得てバイクの販売も軌道に乗りだしました。
 
 1956年には175ccのYC175の量産体制に入り、人手が足りなかったヤマハは、各地のバイクメーカーや販売店にいた即戦力になる人材を急遽集めたのです。その中の一人が義一でした。そして、契約期間は4月いっぱいの1ヵ月間だけだったのです。
 
「大阪から浜松駅に降りたとき、ド田舎に来てしまったなあと、がっかりした。当時、浜松の繁華街にはチンピラがいて、地方から就職に来ていた若いモンたちがよく脅されていたんだ。でも、俺だけはからまれることもなかったなあ。当時流行りのつま先がチョコレート色のコンビの革靴とコート肩がけにして、颯爽と街を歩いていたよ」


ヤマハ工場昼休みの対決


「工場に行くと、係長(杉山係長)から『工業高校を出たんだってね。旋盤扱えるか? 』っていわれて、ミッションのメインシャフトを削る仕事をしたよ。
 当時のヤマハはまだ広い敷地内に2棟の工場があっただけだった。昼休みには腕に覚えのある男たちが、バイクに後ろ向きに乗ってみたり、曲乗りをしたりと、特技をひけらかしていたんだ。そいつらが女子社員たちに囲まれてキャーキャー言われているのを見て面白くなくってねえ。『俺はバイクの軽業師のような技はできないけれど、早く走るのは負けねえ!』なんて言っちゃったもんだから、相手は当然『そんなこと言うなら、俺と勝負してみろ!』となる。売られた勝負は買わないわけにはいかない」

 にわかに昼休みの工場が勝負の場に変わり、工員達の見守る中の勝負です。
 工場内でのレースの結果はあっさりと義一の勝利で終わりました。
 その昼休みのバイク対決のあと、義一は総務課から呼び出されます。

「俺は地元のやつらと違って垢抜けていたから当然モテたわけ。てっきりいろんな女の子と遊んでいたことがばれたと思った。呼ばれた時に『あのことか!』って。てっきりクビになるのかと覚悟をしたんだよ。」

 義一を呼んだのは当時のヤマハレーシングチームの監督、渡瀬善三郎氏でした。渡瀬監督から義一はヤマハとライダーとして契約しないかと誘われたのです。
 けれども義一は4月30日に工場勤務の契約終了と同時に、一旦帰郷してしまいます。しかしその後、ヤマハから大阪の家に何度も連絡が来たのでした。

「母親に知られると『バイクレースなんてそんな危険なこと絶対ダメだ』と反対されると思ったから、『まだ仕事が残っているから』と、ごまかして浜松に戻ってくることにしたんだ」

 次にヤマハに戻ったときには、もう工場ではなく、浜名湖でのテスト走行をすることになりました。ヤマハ専属ライダーとしての仕事です。

「最初はテストコースの道を知らないから、他のライダーについて後ろを走っていた。後ろにいると、排気や土ぼこりで顔が真っ黒になっちゃうんだ。それが嫌で、早く道を覚えよう、前を走ろう、と必死に練習していたら、速くなって、一番前を走れるようになっていた」 
 義一は、ヤマハとライダー契約をした一年目の1951年、「第4回富士登山レース」250cc以下のクラスで初出場で優勝を飾り、瞬く間に目立つ存在になりました。
「あのころは、やることなすことすべてうまく行って、天狗になっていたね。富士登山レースで優勝した褒美にヤマハからYC-1をもらったよ。さっそく女の子を連れて、そのバイクで走りに行ったなあ。白バイにわざとスピードを上げて挑発したりすると、女の子が、キャー!ステキ!と騒いでくれるから無茶もした。
 六甲の峠を下る時も、競争しちゃう。相手はエンジンをかけて、こっちはエンジンをかけないで下るんだ。それでもこっちはブレーキのかけ方をわかっているから、勝てるんだよ」