こうしてレーサー砂子義一は誕生した3 昭和26年スミタへ
バイクメーカーに入社
義一が初めて運転したのは、小学生時代、近所にあったオート三輪でした。
「持ち主のオヤジがエンジンかけられたら乗ってもいいって言うから、一生懸命になってかけたんだ。小学生が自分で運転して、一般道を走ってたんだよ」
バイクが好きでたまらない義一に大阪スミタに勤めていた友人が入社を勧めます。昭和26年のことでした。
スミタ(スミタ発動機)は、戦後激しい勢いで興ったオートバイメーカーの一つでした(本社は東京都墨田区)。戦時中に軍需産業を担っていた工場が、需要もあったことから、戦後その設備と技術力を利用して参入したのがオートバイだったのです。
それは、雨後の筍のような勢いでした。
1950年代のバイクメーカーの数は、関東だけでも100を超え、浜松や中京地区を合わせると、200社以上がひしめいていました。
その中でもスミタは比較的早い1951年からバイクを製造、当時はホンダに次ぐ業界2位の生産量を誇っていました。
「大阪もそのころはだいぶ戦災から復興していて、ダンスホールなんかが流行っていた。当時、『海に落ちたB29のパイロットの時計が動いている! 』って大騒ぎになったことを覚えている。自動巻きの時計だから、波に揺られて時計だけは止まらない、なんて噂されていた。時計といえば、シチズン時計が落としても壊れない時計だって、御堂筋の上空から時計を蒔いて宣伝したことがあったね。
スミタに入社した頃っていうのは、バイクが飛ぶように売れた時代だった。入社してもらった最初の給料が9000円で、母親に渡したら、絶対間違いだから返して来なさいって言われたぐらいだ。そのころの大卒の銀行員の初任給は3000円くらいだったから、驚かれて当然だ」
義一にとって忘れられない上司がいました。
「上海帰りの尾崎さんて言われていて、歳は5、60代の大先輩。入社したての何も分かっていない俺に、いきなりエンジンばらせって言うんだ。クランクシャフトの左ねじがどうしてもばらせなくて、外し方を聞いたら、教えてくれるどころか、バカっ! ってドライバーでたたかれたよ。
悔しくて、家に帰って工業学校の教科書を開いて左ねじの扱い方を一生懸命調べて、エンジンをバラした。今度は、ばらしたら組み立てられない。必死であれこれやってみて、組みあがった時にはもう、涙が出た。
何かと面倒を見てくれて、セールスに行く時にも必ず連れて行って仕事を教えてくれた。
尾崎さんはバイクを修理する時にも真っ白なワイシャツで修理する。袖をまくっているぐらいで、全然服を汚さないんだ。俺なんか作業着真っ黒にして修理するのに、それだけ腕のいい人だったんだ。イキな人で、仕事だけじゃなくて、遊び方も教えてもらったなあ。
仕事でトヨタのFX型トラックを運転するために、自動車免許を取ったのはこの頃。
朝早くから、残業もへったくれも無いくらい遅くまで働いたけど、仕事が終わるとバイクに乗って帰れるのが嬉しくて仕方がなかった。まっすぐ家に戻るのがもったいなくて、会社から守口の自宅まで、毎日、高槻から京都経由で、遠回りして帰っていた」
スミタからヤマハへ
この頃の義一はメカニックとしてレースに携わることが多かったようです。
「大阪長居にオートレース場があって、そこでバイクレースがあったときにはメカニックとして参加していたんだ。
第1回浅間高原レース(昭和30年11月)の時に、ヤマハが勝ったって聞いて、楽器屋が勝てるんだったら、俺だって勝てると、レーサー(レース用バイク)を作ったこともあった」
そのヤマハに直接出会うきっかけは、スミタの経営不振からでした。
昭和30年にもなると、モーターサイクル市場が飽和状態となり、多くのメーカーは月賦販売の増加などによる資金繰りの悪化などから淘汰されてゆきます。スミタもその波に飲み込まれていったメーカーの一つでした
(※スミタは1955年までバイクを生産した後、撤退。販売会社に転業し1960年まで存続)。
「スミタを辞めたのは昭和30年の秋。もう、その一年も前から給料は出なくなっていたけれども、メカニックの技術は絶対ためになるからと、無給で働いていたんだ。でも、社長のすまなそうな顔を見て、こういうのは良くないなあ、このまま会社にいてはいけないと悩んで辞めたんだ。
そのころ、バイクの専門誌『モーターサイクリスト』の草野さんという人と知り合っていて、彼がこれからは、ホンダ、ヤマハの時代になるよって言ってたんだ。ホンダは4サイクルでヤマハは2サイクルのバイクを作っていて、スミタは4サイクルだったから、今度は2サイクルのバイクを作りたいと思って、ヤマハに入ったんだ」
しかし、まだこのとき、義一はライダーとしてレースの世界に飛び込むことになるとは思いもしなかったのでした。
こうしてレーサー砂子義一は誕生した2
戦後、気持ちをもてあます
「戦争が終わってアメリカの占領下に置かれてから、カービン銃を持ったアメリカ兵がうちに来て武器を隠していないか家中探されたことがあった。当然、アメリカなんか憎くてしょうがなかったから、抵抗したくてしかたなかった。
妹が、アメリカ兵からチョコレートを貰えるよ、って教えてくれた。最初はあんな敵からもらえるかー!って思ったけれど、背に腹は変えられなくて、最後には率先して『ギブミーチョコレート』ってアメリカ兵のクルマを追っかけて走っていたよ。
そういえば、敗戦間近の中学で、小松先生という英語の教師が『英語をしゃべる国と戦争しているんだから、英語は絶対知っておいたほうがいい』ってんで、こっそり禁止されていた英語を教えてくれたことがあった。すごい先生がいたんだよ。
当時は街の通りに雑草すら一本も生えていなかった。きれいに刈り取られている。みんな草を食べて飢えを凌いでいたんだよ。不思議なことに、今思い出すと嫌な思い出だけではなくて、必死で、一生懸命生きていたことがいい思い出にすらなっている」
義一は中学卒業後、工業高校へ進学します。
「毎朝校門の前で『週番士官』と名乗って、たすきをかけて立っているやつがいるんだ。そいつらがポケットをひっくり返して、検査をする。俺は煙草はやってなかったけど、煙草のカスなんて入っていたら、バチーンてビンタを食らう。そのことを上級生に抗議なんてしようものなら、工業高校だったから弱電室に連れて行かれて電気椅子にかけられちゃうから、校内では絶対に逆らえない。だから俺は下級生をいびる上級生を外に呼び出して、一人ずつやっつけていくというのを毎日続けた。それで上級生になめられないようになった。
夜になっても家でじっとしていられない。街を出歩いては、誰彼かまわずぶつかってきたやつにケンカを売っていた。あるとき、ケンカして負かしたやつの仲間20人が仕返しに来た。こっちは一人だからあっという間に路地裏に引っ張り込まれて、ズタズタに殴られこともあった」
義一のケンカに向けられたエネルギーは、やがてバイクに向けられることになります。バイクとの出会いがやがて新たな世界への扉を開けることになるのです。
第二章 こうしてレーサー砂子義一が誕生した 1
神主にも教師にも食ってかかる
砂子義一は1932年、台湾で生まれています。
「台湾から日本に戻ったのは俺が3歳のとき。オヤジは放浪癖があって仕事はできる人なのに怠けていて、お袋が縫い物や洗濯の仕事をして7人の兄弟達を育ててくれたんだ。
お袋は厳しい人で、叱る時にはバシバシたたかれた。よく空き地の積んである電柱の上に座って『あれは、本当のお袋じゃないんだ……、いつかやさしい人が、私が本当のお母さんよって、迎えに来てくれるんだ』って空想にふけていたよ。でも、家の灯りがつくと、遅くなるとまたお袋に叱られるから、ちゃんと家に帰るんだけど」
尋常小学校の1年生のときに3回も学校を変わった。神戸の大黒小学校に入学して、2学期からは大阪の北河内の学校に、それから旭区の古市小学校に転校したんだ。
北河内の小学校から古市小学校に転校したばかりのときに、土足で校内に入ったのを先生に『なんだーっ』て、怒鳴られたから、『何だもへったくれもない、前の学校は土足で良かったから土足で入ったんだー』って、怒鳴り返した。戦前の小学校なんて、教師に従うのが絶対だったから無鉄砲な子どもだったんだ。
神社の池に亀がいて遊んでいた時も神主に『危ないから、池に近づくな』って注意されたんだけど、『だったら危ない物を何で造るんだー』って、言い返したらしい。とにかく、子どもの頃から気が強かったんだ。
昔から、ストレートに物を言ってしまうんだ。その分やることはやる。人にはそれはしんどいよって言われるんだけど」
疎開先で
義一が9歳の時の昭和16年(1941)、太平洋戦争が始まります。戦局が厳しくなった昭和19年、都市部の国民学校の児童は農村部へ一斉に学童疎開をさせられます。大阪にいた義一も学童疎開をした一人でした。
「北河内の寺に疎開をしていたんだ。食事は少ない米をお粥にのばしたものだったから、
どんぶりをポンポンたたくと、飯がひと塊になるくらい少ないんだから、何しろひもじかった。
お袋が心配して、日曜日ごとにやってきてくれて、田んぼの畦道でこっそり家から持ってきた食べ物を食べさせてくれたんだ。それを友達が見ていたらしくて、その日以来、誰も俺と口をきいてくれなくなっちゃんたんだ。そんな日が一ヶ月以上続いたと思う。俺はどうしてもみんなと話をしたかったから、いろいろ考えた。それで、一番体の大きい寺内ってやつが威張っていたから、そいつをぶっとばすって、みんなの前で宣言して、本当にぶっとばしちゃった。そいつは体だけ大きくて、空威張りしていただけだったんだ。それからみんなに見直されて元通り仲良くなれた。
今のいじめ問題を見ても、俺はいじめられたらいじめ返せと思うよ。息子の智彦が転校した日にいじめられて泣いて帰ってきたから、『いじめたやつをぶっ飛ばして来い! 行かないと家に上げないぞ』て、言ってやったことがある。次の日から智彦にその子は何もしなくなった。最初が肝心ななんだ。だけど、今のいじめは集団でやるから、美学が無いよ」
大阪大空襲の凄惨な記憶
「終戦は旧制中学一年の時。入学式のときに先輩が『赤とんぼ』※で飛んできて、『我々に続けー』と歓迎する。俺もその姿に憧れて、特攻隊に志願するつもりだったから、あと2、3年戦争が続いていたら生きていなかったと思う」
※第2次世界大戦中の日本軍練習用飛行機の愛称。目立つオレンジ色に塗装されていたことからそう呼ばれていた。
大阪を襲った最初の大空襲は1945年3月13日。その後、6月1日、6月7日、6月15日、6月26日、7月10日、7月24日、玉音放送のあった日(終戦記念日)の前日、8月14日まで続くのです。
「通っていた学校の校庭に高射砲があったから、敵の格好の餌食になっていた。爆撃から逃れるために、みんな一斉に逃げる途中で俺だけ転んでしまった。ところが転ばなかったやつのところに爆弾が落ちた。 落ちた爆弾の先っぽを見つけて、友人に渡したとたん、そいつの手の上で爆発したなんてこともあった。
空襲の後、学校に行こうと歩いていると、周りが焼夷弾が落ちた後で赤茶けていた。ひとりのおばさんが、死体が山になっている中から息子の左手を探していると言うから俺も手伝った。手を拾っては、これは違う?これは?って。その時は死んでいる人を見ても何とも思わない。防火水槽に浸かって上半身だけ焼けた人を見ても平気だった。人間は環境に慣れてしまうものなんだ。ただ、焼夷弾を口にくわえたまま死んでいる兵隊さんを見たときだけは、ワアーって悲鳴をあげた。
人間同士殺し合いをしているなんて、人間は愚かな生き物だ。戦争なんか大嫌いだよ。イラクの戦争でも、湾岸戦争でも庶民が死ぬから嫌いなんだ。俺たちの頃のように赤紙一枚で兵隊に取られたり、命が簡単に奪われる。そんな時代には二度としたくない」
第3回日本グランプリ
プリンスチームに秘策あり
R380のテストも順調に進んで、1966年5月、第3回日本グランプリを迎えます。このときの観客層動員数は10万人、予選の2日に降った雨のために、道路整備が不完全であったこともあり、サーキットまでの渋滞はすさまじいものでした。日本グランプリの名誉総裁であった高松宮さまも開会式に間に合うよう途中から3kmの距離歩いたとのことです。(参考、林信次著『富士スピードウエイ最初の40年』)
では実際、レースに出場するドライバーはどうやってサーキットに入ったのでしょうか。
「渋滞して時間通りには入れないことは分かっていたから、前の夜にサーキットに入るんだ。眠れなくて、苦労した人もいたみたいだけど、俺はよく眠れるねえって感心された」
プリンスR380が出場するグランプリ(レース専用スポーツカー)クラスにはまたもやポルシェがエントリーしました。今度は滝進太郎のポルシェカレラ6です。
しかい今回、プリンスチームには、R380だけではなく、ピットワークにも秘策がありました。
360kmの走行距離の中で、R380にとって給油が必要でピットストップを余儀なくされます。そこで、「重力式スピード給油装置」と呼ばれている、ガソリンを高いところから給油できるようにする装置の開発したのです。
この装置を考え出したのは、当時設計部にいた柿島道雄氏でした。
柿島氏:「毎年レースが終わると、次の年のレースカーの設計に取り掛かりました。設計部の仕事は5月、6月、7月が大忙しで、試作部は秋が戦争でした。冬にはテスト走行が始まりますから、設計変更があって、設計部も忙しい。3月4月には、ドライバーの練習走行が始まりましたのでレース部隊として借り出されていました。
その時に、チームの動きを見ていて、一周当たり2L使うとしたら、ゴールまであと20L必要と計算して、その分だけ上から給油すればいいと思いついたものでした。プリンスはいい会社で、私のような若い社員が書いた図面でも、持って行くと試作品を作ってくれたのです。
車の走りで1秒縮めるという事は大変なことですから、これでピットインの時間が短縮できると聞いて、レース監督の青地さんも非常に喜んでくれました。この作戦はトップシークレットでした。サーキットで練習すると、他のチームにばれてしまいますから、給油の練習は荻窪工場内ででこっそり行いました」
砂子義一もこの給油方式知ったのは、日本グランプリ決勝当日のドライバーズミーティングの時だったようです。
当時、ドライバーへは給油などのピットワークが終わると、ポンポンと車体をたたいてピットから再スタートの合図にしていました。
チームとしての戦い
雨の中で行われた予選結果は、1位が日産フェアレディの北野元、2位がトヨタ2000GTの田村三夫、3位がプリンスR380の砂子義一でした。悪天候のためR380はタイムを出すことよりもプラクティスを重ねる時間に切り替えたようです。
「スタートで決まるなと思った。だから、1周目でトップをとらなくちゃダメだとチームからも言われたんだ。スタート直後、第一コーナーでは1台抜かして2位だったから、2週目の横山コーナーで無理してトップに出たんだ。
何で横山コーナーっかっていうのは、練習走行のときに横ちゃん(プリンスチームの横山達)が乗った車のアクセルが第一コーナーで戻らなくなっちゃって、土手に登っちゃって大騒ぎしたことがあったんだ。それで横山コーナーって名前がついちゃったんだ。
プリンスは、レースでは一番早い車をチームメイトが援護するというチーム内のルールが出来上がっていたから、まずは、一番前に出るしかないと思った。それまで4輪に転向してから一度も優勝をしたことはなかったから、このときばかりは絶対優勝したかった」
2周目で、プリンスの砂子と生沢の1−2、3位にポルシェの滝進太郎の順位で6周まで続きます。6周目にはポルシェの滝が生沢を抜き、とうとう24周目、砂子もストレートで280km/hの速さで抜かれます。
32周、滝は給油のためピットに入りますが、ピットアウトするまで55秒がかかりました。その間に、プリンスの砂子、生沢に抜かれ、順位を3位に落とします。
生沢は、プリンスのチームでの戦いに貢献しようとポルシェの行く手を阻み、砂子の赤いR380はトップ周回を重ねて行きます。
36周目、砂子のピットストップ。「重力式スピード給油装置」を使用したチーム力で、わずか15秒の速さでピットアウト。1位の順位を守ります。
結局、ポルシェの滝は41周目、最終コーナーのガードレールにぶつかり、リタイア。滝を押さえにまわっていた生沢も、オーバーヒートで45周目でリタイアしました。
「ポルシェがリタイアした時に、チームが「×」というサインボードを出してくれた。それで、自分が優勝できると確信したんだ。もう、夢心地でステアリングを握っていたよ」
2位もプリンスの大石秀夫でしたが、周回遅れでした。3位はトヨタ2000GTの細谷四方洋でした。
砂子はマシンに無理をさせず、スムーズにそのままゴールに向かい、2時間9分58秒のタイムで総合優勝。表彰台の真ん中で満面の笑みを浮かべます。
このときの優勝賞金は、150万円。1966年当時の大卒初任給は2万8千円程でしたので、現在の価値に換算すると1千万円を超える高額な物でした。
グランプリが終わった後チームをあげて箱根で祝ったそうです。
こちらで第3回日本グランプリの画像が見られます。↓
http://jp.youtube.com/watch?v=zg4-HiAK3dI
※この記事は、砂子義一氏のインタビューを元に再構成しております。