第3回日本グランプリまで

ニスモフェスティバルでのR380

 プリンス自動車は第2回日本グランプリを圧勝で飾りましたが、メインのGP-2レースでポルシェ904に敗れたことから、本格的なレーシングマシンの製作を計画します。

 レース責任者の田中次郎がヨーロッパに渡り、イギリスのブラバムから直接足回りの研究用にF2のBT10を、シャシー設計用に2シーターレーシングカーのBT8Aを購入しました。

 ところが、翌年1965年の第3回日本グランプリは開催中止となってしまいます。

 プリンスチームはクラブマンチームとして、この年にオープンした船橋サーキットでのクラブマンレースにスカイライン2000GTで出場したり、ストックカーレースにグロリアで参戦しています。
 この年、砂子義一は砂子晴彦のエントリー名で出場しています。前年11月に誕生した長男智彦(砂子塾長)のミルクの飲みが細く、心配して改名してみたとのこと。やがて、元気に育ったことで翌年からは義一に戻っています。

 日本でのストックカーレースは塩澤進午が設立した「日本オートクラブ」(NAC)が1963年から始めました。2リッターの国産車(グロリアなどのクラス)が対象で、プリンスだけではなく、トヨタも日産もワークス体制で参戦していたようです。
 65年にはシリーズ戦として開催されていました。会場は、川口市オートレース場オーバルコースでした。 

 この年の6月にはプリンス自動車日産自動車の合併が発表されます。
 このことについて、義一氏は意外な話を聞かせてくれました。

鈴鹿サーキットでレースをしていた時に仲が良かった日産の国光(高橋国光)が、『380ってどう?』って聞いてきたんだ。そのころ、俺はまだR380のことなんて、知らなかった。日産の方が先にプリンスにはR380があるって知ってたんだ」

 65年7月に完成したR380は日本グランプリでの総合優勝をかけて作成された国産車初の本格的なレーシングカーです。
 日本グランプリがなくなったことで、プリンス自動車は1965年10月に谷田部テストコースでスピードトライアルを行いました。ドライバーは社員の杉田幸朗です。
 このときに、R380がクラッシュする事故がありました。幸い杉田は軽症で済んだようです。
 スピードトライアルへの挑戦でR380の問題点を表面化させ、直してゆくという繰り返しがレース車両としての完成のスピードを高めました。

 第3回日本グランプリは、1966年に富士スピードウエイでの開催が決定します。第1回、第2回の鈴鹿サーキットJAFが提示した開催費用を承諾しなかったためと言われています。
 富士スピードウエィは1965年12月に仮オープン、翌66年1月3日には正式に営業開始をし、最初のレースは3月、2輪のクラブマンレースでした。

「はじめは富士スピードウエイを54B(スカイラインGT)で走ったんだ。コンピューターの計算上は30度バンクにこのスピードで進入できると言われたけど、コンピューターの計算にはドライバーの恐怖心は入っていないんだよ。青地監督から絶対行けるからといわれて、よし、死んだ気でやるか、と、最初に全開で30度バンクに飛び込んだのは俺だったんだ。
富士のストレートから1コーナーに差し掛かる時に、生沢の車を抜くと、生沢は俺が乗っていた車のほうが速いから砂子のエンジンと替えてくれと言う。でも、抜けたのは車の性能の差ではなくて、バイクのライダーなら当たり前に使っていたスリップストリームを使ったからだった」

 プリンスの契約レーサーがR380に乗ったのは、富士スピードウエィができた後の1966年3月のことでした。
 「R380(サンパーマル)を乗った時には驚いたね。『これは車かよ』って思った。ミッドシップの車も初めてで、速さもすごいけど、何しろ、ステアリング比が1:1。ちょっと切るとどこかにいっちゃう感じだった。怖かったよ。
 コースには一台の380が持ち込まれて、俺と生沢、大石、横山が交代で乗ったんだ。
 俺が初めて2分4秒台を出した時は、桜井真一郎がコースに飛び出してきて、『わかったわかったそれ以上出さなくていいから』と言われた。もっとタイムが上がったけど、性能がばれるとまずいから押さえて走っていたよ。
 R380の色は、俺は赤がいいって最初に手を上げた。生沢も赤がいいって言っていたらしいけど。俺が赤で、生沢が黄色で、大石が青で、横山が深緑になったんだ」

 つづく

※ このブログは砂子義一氏のインタビューを元に再構成しております。

砂子義一レースアルバム2

ノスタルジックレース写真の蒐集家 安川肇氏による砂子義一氏のレースシーン集2です。
  


 写真撮影、解説は安川氏によるものです。


 
上段 1965・7・17 砂子晴彦のさん(本名は義一さん)のSKYLINE2000GT
 船橋サーキット 左回り 2.400km
第1回全日本Car Club Champion Race
予選中。恐らくS54(CR)でしょう。後ろは英国製・MORGAN
 

 
 砂子義一氏はGTⅡクラスに出場 クラブ名はプリンスモータリストクラブスポーツ(PMCS) 決勝では、2周でリタイアとなった。
 GT-Ⅰ、GT-Ⅱ両クラスを浮谷東次郎が制覇。
 GT-Ⅰでは草履履きで表彰台に上がったのは有名なエピソード
 (レーシングシューズが雨で濡れるのを嫌がり履き替えたと言われている)。   (Gohamamatsu注)
 中段 1965・10・24 砂子晴彦さんのSKYLINE 2000GT
 船橋サーキット 左回り 3.100km
 第3回Clubman Race船橋 GT-3class只今ぶっちぎりの様子 Socks surve-toeの部分

 下段 1965・11・21
 砂子さんのSKYLINE 1500Delx. 船橋サーキット 左回り 1.800km
  第7回National Stock-Car-Race  Grand National Race4気筒のS50D(R)も早かった。



 ※砂子義一氏は1965年ごろの一時期、ライセンス名を「晴彦」としていた。
  1964年11月に生まれた長男の智彦氏(砂子塾長)のミルクの飲みが少なく、心配をして改名をしていた。1966にはその心配もなくなったため、義一に戻している。

 (Gohamamatsu注) 

 安川肇 氏 

 1963年の鈴鹿サーキットを皮切りに国内のあらゆるレースの写真を撮影、所有している。
  東京都在住
 連絡先は 03-5916-1660
 
 写真は年代別、ドライバー別に取り揃えており、購入が可能です。
 

第一章 日本グランプリ参戦

スカイラインGT


 第2回日本グランプリ

背景
 1963年5月に鈴鹿サーキットで第1回日本グランプリが開催されましたが、プリンス自動車日産自動車との合併は1966年)は、「日本自動車工業会に参加しているメーカーはレースに協力しない」という申し出をかたくなに守ったため、最高位がスカイラインスポーツでの7位と惨敗してしまいます。
一方でトヨタトヨタ自販を中心としてレースに勝つための戦略を立てました。手探りながらレース仕様の改造をして臨み、トヨタ車のドライバーへ資金援助をしたのです。結果は各クラスで優勝。「トヨタ車出場全種目に優勝」と大々的に宣伝をして売り上げに結び付けました。
グランプリ終了後、プリンス自動車の中川専務は会長の石橋正二郎に呼び出され、叱責されたことは有名な話です。
プリンス自動車は一念発起し、第2回日本グランプリに向けてレース体制を敷きます。

2輪から4輪へ
 その頃、砂子義一ヤマハのワークスライダーとして、世界GPに出場していました。マン島レースでこそリタイアしたものの、オランダGPでは4位、ベルギーでは2位という好成績を収めています(いずれも250CC以下クラス)。
 「ベルギーのスパフランコルシャンでは※伊藤史朗(いとうふみお)に負けちゃった。伊藤史朗は走る化け物みたいだったよ。スパフランコルシャンは1周14kmだったからまだ憶えやすかったけど、マン島の60kmのコースを覚えるのは大変だった」
 (※伊藤史朗は第1回浅間火山レースにライラックで出場。弱冠16歳で優勝し、後にヤマハと契約し1963年に世界GP総合3位になるなど、天才といわれていたライダー)
 「当時、ヤマハでヨーロッパに遠征するために、ひとり100万円ぐらいかかっていた。それで、だんだんと現地のライダーを採用する動きが出てきて、日本人ライダーはクビになると言われていた時期に、伊藤史朗プリンス自動車と契約できるという話を持ってきた。その話をきいたのはヨーロッパ遠征から帰国する飛行機の中だったなあ。
 伊藤史朗の話は最初信じられなかったけれども、プリンス自動車から直接話を聞いて、やっと本当のことだとわかった。だけれども、4輪のレースがどういうものか、プリンス自動車がどういう会社なのか、その時はぜんぜん分かっていなかった。
 その後、プリンス自動車のレース活動の中心にいた、桜井真一郎と、レース監督の青地康雄らエンジニア達と話をしてみたら、話が合う。こんな会社があるんだと思って、よし、契約しようと思った」

 第1回日本グランプリの時の出場ドライバーは、自家用車を買うことができる、お金持ちのボンボンなどが中心に趣味が高じてレースに出場したという様相でした。第2回日本グランプリ砂子義一や大石秀夫らヤマハのライダーがプリンス自動車と契約することにより、4輪のプロレーサーの嚆矢となります。ほどなく、ホンダのGPライダーとして活躍した、高橋国光北野元は日産のドライバーへ転向しています。

「1963年の11月に契約をして、翌年の5月の日本グランプリまで半年間、プラクティスをひたすら繰り返した。
ヤマハのバイクで鈴鹿を走っていた時に、コースを走っている車を見て、あれがレーシングカーか?って、バカにしていたんだよ。ところが、いざS41グロリアで鈴鹿を走ってみたら、2輪より4輪はスピードが遅いから、サーキットのコーナーで目一杯突っ込んでスピンしちゃう。だから、はじめの頃は、社員ドライバーの小平(勝)、杉田(幸朗)、須田(祐弘)が速かったんだ。当時のレース活動の責任者だった田中次郎部長のノートに『砂子、大石は使い物にならない』って書いてあったって、大石が教えてくれて、これは大変だ、一発でクビになっちゃうと思った。
ある時、外国人ドライバーが来てドライブしたときに、助手席で初めてヒール&トゥを見て、なるほど、こうなるのかと理解できた。それがきっかけになって、タイムが飛躍的に上がったんだ。プリンスには『やっぱりすごい』と思ってもらえたみたいだ。
 当時はラッキーな時代だったと思う。今じゃお金払って契約したドライバーに走り方を教えるなんて考えられないし、メーカーもドライビングテクニックなんてまったく知らなかった。ドリフトしなくちゃ速く走れないなんてことは、自分で走りこんでわかったことだった」

7周目と12週目の証言
1964年(昭和39年)5月2日から3日にかけて鈴鹿サーキットにて第2回日本グランプリが開催されます。
プリンス自動車工業はグロリア(T-Ⅵクラス)、スカイライン1500cc(T-Vクラス)、スカイラインGT(GT-Ⅱクラス)で3クラス制覇を狙いました。

「グロリアでは、エンジントラブルでリタイアしたけど、その前に他のメーカーの車のやつにドーンとぶつかってこられた。ライバル会社では砂子をつぶせということになっていたみたいで、実際に身の危険を感じでボディガードを雇ったぐらいだった」

第2回日本グランプリで語られているシーンはポルシェカレラ904とスカイラインGTの対決でした。
スカイラインGT。グランドツーリング部門で、他メーカーの性能を上回るために急遽、1500ccスカイラインにグロリアの直列6気筒エンジンを載せるために、ベースのスカイライン1500の4気筒用の車体を切り、20cmほどを足したものでした。
ツーリング部門に出場するためには、販売用であることが必要であり、プリンス自動車は大急ぎでホモロゲーション申請期限の1964年3月15日までに100台の生産を達成させます。
しかし、GT-Ⅱクラスには式場壮吉がポルシェ904で出場。スカイラインGTの41号車生沢は予選1位だったものの、スタート直後には式場が余裕でトップに立ち、その後ろに生沢、39号車の砂子と続きます。
7周目のヘアピンコーナー付近で、生沢が式場を抜き、トップを走り、それを見ていた観客は総立ちになったといいます。しかし、バックストレートでまたトップは式場に。
3位で走行していた砂子義一は、その時の様子を後ろから見ていました。

「俺は、生沢が式場の前に行った時に、プリンスは勝てる!と思ったんだ。でも、スプーンコーナーを立ち上がっていたときに、生沢は式場に抜かせてあげていた。生沢と式場の間で話ができていたんだ。『スポーツ精神にのっとってどけてあげた』と彼は言っているが、俺は、生沢はレースを放棄したと思った」

 生沢が2位、砂子が3位で走行していましたが、12周目で生沢の前に出て、そのままゴールをします。

「俺の車のほうが生沢より速い車だったから、プリンスを勝たせるためには生沢を抜かなくてはと思った。どけろ、どけろ、って意思表示をしたけれど、どけないから、ダンロップブリッジのところでぶつけて合図したんだ。生沢が驚いて気づいたから抜くことができた。それから、やっと式場を追いかけることができた。
式場はそれほど速いタイムで走っていなかった(式場の最速ラップは2’48”4 砂子は2’48”9)から、勝負できると思ったんだよ。」

1位はポルシェカレラ904、2位から6位までスカイラインGTが独占。ポルシェと互角に戦った国産スポーツカーの姿は人々に鮮やかな印象を残します。

 凱旋パレードで迎えられる
 マイカーを持つことはもちろん、自動車免許を取ることさえ敷居が高かった当時、憧れの車が多数出場する「日本グランプリ」の注目度は想像を超えるほどとても大きかったようです。レースの模様はテレビでも生中継で放映されていました。

「テレビで俺の名前が出たのを見て、視聴者からの問合せがプリンスに来たらしいんだけど、当時は住所を平気で教えちゃうから、ラブレターも来ちゃうし、大騒ぎだった。
 鈴鹿から帰るときには、箱根、小田原、プリンス自販と歓迎を受けながらの凱旋道中。今思うと最高にいい時代だったよ。」


第2回日本グランプリプリンス自動車の奮闘はこちらでご覧になれます。
 砂子義一氏も登場しています。 
http://youtube.com/watch?v=KVdm98txhEw


 次回は第3回日本グランプリについてです。


 

砂子義一 レースアルバム1

gohamamatsu2008-01-16

 
 ノスタルジックレース写真の蒐集家 安川肇氏による砂子義一氏のレースシーン集①です。
 http://f.hatena.ne.jp/gohamamatsu/20080116172907
 

 写真撮影、解説は安川氏によるものです。

 1965・3・28
 ※砂子晴彦さんのGLORIA SUPER6
 川口市営自動車競技場 左回り800m 第4回National Stock-Car-Race Grand National Race 整備不良で11番手から。 本名は義一さん。

 ※砂子義一氏は1965年ごろの一時期、ライセンス名を「晴彦」としていた。
  1964年11月に生まれた長男の智彦氏(砂子塾長)のミルクの飲みが少なく、心配をして改名をしていた。1966にはその心配もなくなったため、義一に戻している。

 (Gohamamatsu注) 

 安川肇 氏 

 1963年の鈴鹿サーキットを皮切りに国内のあらゆるレースの写真を撮影、所有している。
  東京都在住
 連絡先は 03-5916-1660
 
 写真は年代別、ドライバー別に取り揃えており、購入が可能です。
 

燃える親子対談!

親子対談(砂子塾長 砂子義一氏)

2007年2月3日 プリンス東京新年会にて砂子義一氏と砂子塾長親子レーサーによる「燃える親子対談」の様子を採録しました。

冒頭は、1967年に日産自動車がヨーロッパでのレース活動を視野に入れたため、砂子義一氏が現地の視察に行った話からです。


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砂子義一(以下 義一):インレットとエキーゾーストを分けたのがすばらしいエンジンになっちゃって、それを持ってヨーロッパのニュルブルクリンクで僕が当時10分10何秒で走って。
砂子塾長(以下 塾長):R380もできて、ルマンの視察の時に*54CRを持っていて
義一:コースわからないから、林を見て走っていたの。で、走り終わったら、コースに立っていた連中が集まってきて、ドイツ語でワーって言われて。ベルギー日産の通訳のソニアという女の子が訳してくれた。
塾長:通訳だけ?ただの通訳の女の子の名前なんて覚えてないでしょう。普通。
義一:R380でルマンに出るなら、エアーフランスで(費用を)持つって言われて、スターティングマネーが300万!って、聞いてニターって笑って意気込んで帰ってきたら、ボツになっちゃった。
塾長:日産て、そういうとこあるよね。
義一:大石と黒澤が24時間テストして、横ちゃんがスピードトライアルをしていた。
塾長:それは1967年?第2回日本GPが1964年僕がその年の11月生まれ、日本GPが5月だったんで、そのちょい前にしこまれた。
会場から:血液型大丈夫?
義一:大丈夫!北野(元)にサーキットに連れて行って息子を見せたら、「間違いなくよっちゃんの子供だ!俺が証明する! 」と言われた。「ばーか、お前に証明されなくてもいいよ。間違いなく俺の子どもだ!」って、言ってやったよ。
塾長:今日もおやじはコーラ飲んでいるけど、1960年に始めてアメリカに行ってはじめてコーラを飲んだら、こんなにうまいものはないと思ったんだって。
義一:ロサンゼルスで、コーラとマクドナルドとケンタッキーを始めて食べてうまい!と思ってね。頭のいいやつはそれを日本に持ってこようとしたんだけどね。俺なんか凡才なんで、「あーうまいなー」で終わっちゃったの。
塾長:その時、持ってこようと思わなかったの?
義一:思わなかったねえ・・・。
塾長:それを持ってこれば、俺はこんな苦労しなくても良かったのに・・・。
義一:だったらお前もっとバカになってたんじゃないか。

    * * *

塾長:スカイライン50周年ですよ。DVD「スカイライン神話1」を見たけど、いい男だったね。

DVD>スカイライン神話 1 (<DVD>)

DVD>スカイライン神話 1 ()

義一:砂子さんって言ったらすごかったんだ。ゼニは持ってるわ、かっこいいわ、4輪にのっているわ、女の子が放って置かなかった。
塾長:今、地球温暖化って言われているけど、スカイラインスカイラインって騒げた時代を知っていて、良かったと思う。スカイライン誕生100周年の時はガソリンエンジンじゃないよね。50年後、あんな音を出してサーキットを走る車は無いと思う。非国民、非地球民になっちゃう。
義一:そうそう、非国民、非国民。
塾長:CO2を減らすことを考えていかないとモータースポーツがだめになっちゃう。モータースポーツを続けるためには、モータースポーツ人として、一人一人CO2を減らす、環境に良い事を心がける努力をしなければならないと思う。50年後にはレーシングドライバーはなくなると思うし、ガソリンエンジンは20年後にはなくなると思う。スカイライン生誕100周年はあるのかな?

    * * *

義一:日産の中川専務を村山工場で(1967年頃)R380をマスコミに公開して乗せてあげた。中川専務が隣に乗ってくれて、何周かしたら、「初めてドライバーにお金払っている意味がわかった」って言ってくれた。「ありがとうございます!よろしくおねがいします!」って言ったけど、契約金は上がらなかった(笑)
塾長:昔は危なかったからねえ。
義一:プリンスはスカイラインで特攻をやらせたわけだからね。
塾長:桜井(真一郎)さんは安全安心に気を使ったんですよね。
義一:380なんて安全なんて、気を使ってなかったよね。シートの脇がガソリンタンクだったわけだったから。
塾長:一緒に戦ったポルシェ906は・・・。
義一:そんなの知らねえ。
塾長:知らねえって、ポルシェも同じだったんですよね。
義一:ステアリングだって斜めになっているわけだから。
塾長:ステアリングシャフトがこんなに細いの。ステアリングが斜めになっていて、ステアするだけでねじれ剛性が足りねえなっていう感じ。怖いなーって。ストレート200km/hでダウンフォースを失って、ふわーって軽くなってきちゃう。
会場から:ドライバーが良かったから。
塾長:その割にはこれ(ギャラが)少なかったって文句言っていた。俺、十分もらっていると思うけど、全部使ってたんじゃないの?
義一:お金っていうのは使って値打ちがある。
塾長:それが流通って言うか、個人消費が上がんないと景気は良くなんないけどさ、ギャンブル?
義一:ギャンブルなんて大嫌い。
塾長:銀座?
義一:銀座じゃないの。女の子。レースの時に。グアーって。よーし、あの子にハンドバッグ買ってあげようと思ってそれで頑張って走っていた。
塾長:俺、そのハンドバッグあげた人に会いたい。返して、ハンドバッグって。
義一:そりゃあ、やったもんは返してもらえない。女の子に騙されていくら、が、値打ちがあるんだ。
塾長:良かったねえ、生きてて。
義一:俺は怖いもん知らずで通っているじゃん。ストレスなんてあんまりない。
塾長:なさそうに見えるよ。
義一:でも砂子商事やっていた時はストレスで、胃潰瘍で2回血を吐いていた。
塾長:へえー。慣れない事、ビジネスとかするとストレスたまる・・・ビジネスのこと考えると、だめなんだ。レーシングカーに乗って、ハンドバッグのことだけ考えておけばストレスたまんないんだ。
義一:俺だって、レーシングドライバーなんていつまでもやれるもんじゃない。終わった時にゼニが入る方法を考えたんだ。
塾長:星野一義さんが言ってたんだけど、(日産ワークス時代に)村山工場にいたときに、「砂子さんが掃除のおばちゃんに声をかけている。『何やってるんですか?そこまで手エ出すんですか?』って聞いたら、砂子さんが『今こういうビジネスをはじめたんだ』って言っていて、ええーほんとにって驚いて、砂子さんでもそういうこと考えなくちゃならないんだ、ドライバーでいるときからビジネスをはじめなくちゃならないんだ、それでINPULを立ち上げた」っていう話を延々と語っていた。
義一:じゃあ、星野これから年間100万寄越せって(笑)。

会場から:義一氏の健康の秘訣は。
塾長:何も考えていないことですか。
義一:食いたい物食ってりゃ健康なの。あれがいかん、これがいかんって言っているやつが僕より先に逝っている。僕は医者が嫌いで医者に行かない。やりたい放題と、女の子。男である限り、女性に興味を失ったら終わり。


塾長:当時のワークスの横山さんも大石さんも、それから滝進太郎さんも亡くなられて・・・。
義一:ヤマハの(当時の)ライダーで生きているのは俺だけだから大事にしてもらっている。生きているが故にスカイラインのこういった席によばれるし。
塾長:砂子義一一生誕100周年をそのうち・・。
義一:スカイラインの乗ったおかげで、みなさんによくしていただいている。本当にありがとうございますって言いたいわけよ。
塾長:スカイラインが表紙って言うだけで自動車雑誌が2倍のびるんですよね。砂子義一を表紙にすると何倍ですか?
雑誌者の人:3倍です(笑)

塾長:ミニバンばっかりつくっていたら日本がダメになる。男だったら速い車に乗りたいと思わせるような、車をつくらなくちゃ。今、若者がマニュアル免許を取らない時代ですよ。
義一:メーカーで電車が便利だなあって、思わないようないい車をつくんなきゃ。
塾長:日曜日に乗りたいって思わせる車を作らなきゃ。去年の秋にアメリカでインフィニティに乗っていたら、日本以上に注目される。ブランドイメージがとってもいいみたい。
    * * *


客:今後のレース活動は?
塾長:義一にじゃないでしょ。
義一:スポンサーさえあれば…。
塾長:やめたほうがいいって!
義一:この間ニスモフェスティバルでR380走ったとき、あんなんじゃ金出さないって言われたけど、タダだから走んないの。
塾長:ストレートも踏んじゃいない。R380のホイールとかメンテナンスができていなくて危険。なんとかできないの?ストレートでパキーンと割れちゃったら。


塾長:スーパー耐久は乗ると思うんですけれども、・・・今年のレースはGTに乗る話がここ数週間で。2008年はGTRでレースをやりたいですね。どうですか「日産プリンス東京フジツボGTR」ていうのは?
36GTRでポルシェを負かしてみなさい。そんなかっこいいことない。監督は上村さんで。
それは、みなさん喜んでくれますよ。

会場から:昨年のニスモフェスティバルでR383に乗りましたか?
塾長:乗っていないけど、乗った長谷見さんから聞いた話では、R383を富士のストレートで走ったらカウルがあたちゃって、あんまりスピードが出せない状態だったらしいです。

会場から:お父様、当時の現役ドライバーの契約金は?

義一:一番最初にヤマハに100万って言ったら、びっくりされて、それはできないって言われて、日本楽器(ヤマハ楽器)の総務課長に棒グラフをみせられて、「君が、定年のころにはこれだけになりますから大丈夫」って説明されたけど、今日、ホーってなっちゃったら俺いなくなっちゃう、明日がないわけだから、今くれないと困る、って言ってもらったわけ。
塾長:初任給が大卒で1万円だったころ?(昭和31年)2000万くらい?
義一:当時ヨーロッパに行って、スターティングマネーが初めて出るってわかった。
スタートに立つだけで200ドル(72,000円)。
社員ドライバーの(高橋)国光さん、北野(元)は社員ドライバーだったから、スターティングマネーを知らないわけ。会社でとっていたみたい。ペタンコペタンコと(アブソーバーなどの部品メーカーのステッカーを)貼るとそれをヤマハからちゃんとお金をくれる。俺は、全部もらっていた。ヤマハの社員ドライバーの長谷川ちょうさんは社員だから、賞金も、スターティングマネーもらえなかった。
俺が勝てなかった、伊藤(史朗)と二人でシンガポールとか、ジョホールバルのレースで賞金が1位150万円2位50万円だから、ニターっとして出かけていったんだ。
塾長:当時の150万て・・・それが全部ハンドバックだ。どれだけ買えたんだ。
義一:そればっかりじゃないよ。向こうに行ったら、モーテル代やらなんやらでかかるから。

会場から:今度、走行会は塾長長の代わりに義一さんの同乗走行でお願いします。
塾長:ほんとにやめたほうがいいって
義一:ゼニ次第だから!お金っていうのはね、働いたらもらうのが当たり前!みんな欲しいわけだから、黙っているのがおかしい。たのみますよ!
塾長:危険だから乗らないほうが良いって
義一:だから、冗談だよ。乗るって顔して乗らないのがいいんだよ。